「お上」意識というのは、政治や行政が想像を絶するほどにいいかげんという認識が広がるにつれて、薄まってきた。まだ「国がなんとかしてくれる」と考えている人がいれば、それは相当におめでたい人と言わなければならないだろう。
民間企業のように見えても、元をたどると「お上」依存、あるいは共生している場合が多い。前者は省庁→天下り先の独立行政法人・公益法人→随意契約による天下り先のファミリー企業などが当てはまるだろう。後者は、自動車産業など「エコ」などという名の錦の御旗を掲げて、官民一体となって消費者不在の生き残り策に賭けている企業群が当てはまる。これも純粋に民とはいえない。すでに官僚組織だ。
「親方日の丸」というのは、官に依存していれば、とにかく安心という非常に卑屈な処世術を言い表した言葉だと思うが、今回、北沢栄氏の『亡国予算・闇に消えた「特別会計」』を読了して、私は180度視点を変えてみた。
それは、官にもともと経営感覚も能力もなく、民にパラサイトしているということだ。「親方日の丸」は幻想だったのだろう。そして、省庁には特別会計という、手元に潤沢に使えるお金があるだけ、始末に終えない。あえぎつつ地道に経営を続けている中小零細企業や、働いてお金を得ている(またはその意思のある)ネットカフェ難民の方がよほど真っ当に生きていると私は思う。
現在、「霞ヶ関埋蔵金」が注目されている。それは、特別会計の中に埋もれている。当初は否定していたが、その存在を与党も認めざるを得なくなっているのはご存知のとおり。ただ、その埋蔵金も、ストックのものであり、一旦使ったらそれでお仕舞いというのが一般的な評論家や識者の認識だ。
だが、著者は、「埋蔵金」は特別会計のフローでおよそ42兆円、ストックで47兆円規模と見ている。フローの中には毎年10兆円規模発生している「不用金」も含まれる、としている。つまり、フローの部分では、その年限りではなく、毎年10兆円がつかえるわけだ。
決して分かりやすいとはいえない特別会計の仕組みを丹念に明らかにしながら、著者は具体的事例をもって解いてみせる。
もちろん、現在の経済状況を考えれば、特別会計の「不用金」というのは、官から見たものであって、民かられば貴重な「必要金」であり、もともとは自分達のお金であることに違いは無い。
特別会計という官の財布を、民に取り返すことこそが、経済回復の唯一にして最後の手段ではないか? と同書を通読して感じたことだ。あるいは、一度、日本は経済的に焼け野原になった方が復興は早いのかもしれない。