自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

戦前の自動車雑誌 その肆

執筆中の単行本のネタから……。

 戦前の自動車雑誌の創刊当時の背景を俯瞰すると、1914年には快進自動車工業が日本初の国産自動車「脱兎号」を東京上野で開催された東京大正博覧会に出品している。1915年には貿易商社ヤナセ商会がキャデラックビュイックの輸入を開始。また1917年には三菱造船が三菱A型乗用車を少数(22台)ながら製造した。1918年には軍用自動車保護法が施行され、陸軍の主導による国産自動車育成方針が打ち出され、重工業の基盤が確立されたことで日本の自動車産業が期待されるようになった。このような状況の中、東京瓦斯電気工業が、1918年に軍用保護自動車第1号となるトラックを開発した。1923年には豊川順弥が設立した白楊社が日本初の本格的乗用車「アレス号」「オートモ号」を製造販売している。特に性能の良かったオートモ号は、約300台が生産され、上海にも輸出された。

 1923年に関東大震災が発生、東京は壊滅的な被害を受けたものの、復興テンポは早かった。1926年には豊田佐吉豊田自動織機を設立。同年に快進社ダット自動車製造から発展したダットサン自動車製造会社が設立されている。1925年フォード社は、横浜近代的な自動車製造工場建設し稼働を始めた。これを警戒して、日本政府1936年に「自動車製造事業法」を制定、国内資本が50%以上の企業でなければ自動車生産を認めないこととした。このためフォードや同じく日本に進出していたGM1940年に創業を停止した。1932年には日本内燃機が発足し、1933年豊田自動織機自動車部を設立している。軍用乗用車としてだが、1933年に石川島自動車製作所で作られた「すみだ九十三式J型(4輪)、K型(6輪)」が登場。日本内燃機は陸軍からの要請により戦場での指揮、連絡用として小型の乗用4輪駆動車の「くろがね四起(九十五式小型乗用車)」を開発し1935年に製造を開始した。

 『モーターファン』誌は1925年に創刊されている。三栄書房の社史『三栄書房60年の轍』の松本晴比古氏の記述によると、当時の出版元はアメリカ通信社。ただし、この時代のことを『モーターファン』から知ることはできない。それはアメリカ通信社時代のバックナンバー現存しておらず(個人所有の方はいるかもしれないが)、国会図書館などで確認できるのは、社名が「モーターファン社」となっている1939年以降のものになるからだ。誌面にもすでに軍事色が現れている。内容的には、その後の満州事変や中国侵攻のため大半をアメリカから頼っていた原油の入手が難しくなり、木炭、薪炭瓦斯などの代替燃料に関する考察も多い。また、メイン記事を総理大臣をはじめとする政治家官僚が執筆しており、一般的な雑誌とはいえないものとなっている。1943年になると、「国防自動車科学普及雑誌」というサブタイトルが付けられた。同年5月号からは、題字を『モーターファン』から『自動車日本』に変更した。敵性外国語である英語のタイトルから変更せざるを得なかったのだろう。6月号からは、発行元が「モーターファン社」から「自動車日本社」に社名を変更。1944年3月号で、戦況が厳しくなったこと、用紙の確保の問題などがあったと想像されるが休刊となり、復刊は戦後1947年12月となる。(参考文献:『三栄書房60年の轍』)