11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第1回となります。
↓自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史の一回目はこちらです。
モータリゼーションとモータースポーツ誌の関係を書いていくにあたって、まず日本で本格的なモータースポーツが開催されるまでの概要について軽く触れておきます。
第二次世界大戦前から日本でモータースポーツは開催されていました。1922年の東京・洲崎で行われた「第1回日本自動車レース」がはじまりとされていますが、どこかで誰かが個人的に行っていたものもあるかもしれません。1936年には神奈川県に日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」が建設されました。全長約1200mの変形オーバルコースで、二輪車、四輪車によるレースが盛んに行われました。一定の盛り上がりを見せた戦前のレースは戦争により中断することを余儀なくされます。
戦後の四輪のレースを見ると、自動車メーカーが本格的なモータースポーツ活動をするのは国際ラリーからでした。日産自動車が、1958年8月の「第6回オーストラリア1周モービルガス トライアル(豪州ラリー)」に、2台のダットサン210のラリーカー「富士号」と「桜号」をエントリーさせています。19日間、約1万6600kmのコースで「富士号」がクラス優勝「桜号」がクラス4位に入賞を果たしました。戦後のモータリゼーションの黎明期に国際ラリーで好成績を挙げたことは、自動車メーカーに大きな自信を与えたといえます。
本格的なサーキットレースは1962年にホンダがスーパーカブの生産のために作った三重県・鈴鹿製作所の近くに、テストコースを兼ねたレース用サーキット「鈴鹿サーキット」を建設したことにはじまります。ここで戦後はじめての本格的な自動車レースとなる「日本グランプリレース」が行われました。モータースポーツは、当時の最先端のクルマが競い合い、レーシングドライバーという若者の憧れとなる選手が活躍する場となったことで、1960年代のモータリゼーションの一番華やかな部分を受け持つことになります。
自動車雑誌にとっても格好のネタとなったこともあり、この当時は、どの自動車雑誌もモータースポーツを企画の柱にしていました。現在では、自動車雑誌とモータースポーツ専門誌は違う媒体のようになっていますが、60年代後半から1973年の第一次オイルショックあたりまでは、自動車雑誌、そして一般男性誌にとっても、モータースポーツはなくてはならないものでした。
次回からは個々の雑誌を見ていくことにします。
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