自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(2)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第2回となります。

1963年の「第1回日本グランプリレース」を機に発行された「モーターファン6月臨時増刊オートスポーツ」は64年に季刊となり「モーターファンAUTO-SPORT」として正式に創刊された。

鈴鹿サーキットでの四輪レースに先駆けて1962年11月に、オープニングレースとして二輪の「第1回全日本選手権ロードレース」が開催されました。これを「モーターファン」が取材し、臨時増刊「スズカ2輪GP特集」を刊行しました。これがモータースポーツ専門誌「AUTO SPORT」の創刊への布石でした。当時「モーターファン」編集次長で「AUTO SPORT」創刊責任者となった星島浩さんに聞きました。

👇モーターファン創刊時の話はこちら

yoiijima.hatenablog.com

「すでに1962年の9月頃から二輪の全日本選手権レースを前提とした走行会だとか練習会がはじまっていました。雑誌作りに関しては、鈴鹿サーキットで待ち構えていて取材するだけですから、そんなに苦労とは思いませんでした。ただ、今と違って国道1号線の半分以上が砂利道で、そこを使って行かなければならなかったので、鈴鹿に行くので時間がかかるのが大変でした。夜遅くして、翌日の朝ようやく到着するという感じでしたから」

翌年の5月に「第1回日本グランプリレース」が開催されます。そして「モーターファン6月号臨時増刊オートスポーツ」は「第1回日本グランプリ特集号」となります。誌面では詳細なレースレポートを掲載しながら、企画ページも充実しています。「ロータスを生み出す男・コーリン・チャップマン物語(柏木治郎)」、「世界の主なフォーミュラ1レーサー(栗田一夫)」、「世界のGPレース・サーキット」などの記事が目を引きます。当時は母体となる「モーターファン」が認められる段階でもあり、「AUTO SPORT」の発行部数も限られたものでした。星島さんはこう言います。

「AUTO SPORTで儲かるなんて思っていなかったです。ただ、将来モータースポーツが盛んになった時代には、独立した雑誌として認知されるようになるだろうとは考えていました。臨時増刊、季刊、月刊と進んではいきますけれど、それでも儲けるつもりはなくて、世の中に認知してもらうように努力しようというくらいのものです」

「モーターファン増刊」だった「オートスポーツ」は、「第2回日本グランプリ」から季刊「モーターファンAUTO-SPORT」として正式に創刊されます。このとき誌名を「オートスポーツ」から正式に「AUTO SPORT」に変更します。このときの逸話を星島さんは聞かせてくれました。

第2回日本グランプリを終えての座談会。モーターファンのレギュラー陣、工業デザイナーの由良玲吉氏などを交えて意見交換がなされている。

創刊号は第2回日本グランプリの特集。ツーリングカーレース、スカイラインが活躍したGTレースが注目されたが、メインレースはフォーミュラカーによるJAFトロフィーレースだった。

「臨時増刊のときはオートスポーツと片仮名で書いてありました。だけど、1冊の雑誌にするなら、かっこよくアルファベットにしようと思ったのですが、鈴鹿サーキットのオーナー会社がAUTO SPORTのタイトルを登録してありました。いったんは他の名前に変えなければだめかと思いましたが、ホンダの藤沢武夫副社長が、タイトルを譲ってやる。ついでに広告も出してくれると言ってくれました。これはありがたかった」

このように自動車メーカーからのバックアップもあったのです。

実質の創刊号となるこの号では、プリンス・グロリアが表紙を飾り「第2回日本グランプリレース」の詳細なレポートを行っています。実は星島さんは、1963年末に出版元の三栄書房を退職。フリーランスとしての参加でした。すでに仕事の主軸を「平凡パンチ」に移していました。その経緯は次回に。

モータースポーツ熱が高まるなか、1965年には、都心から近い千葉県に船橋サーキットがオープンしました。都心に編集部を構える自動車雑誌にはこれも好都合でした。同サーキットは、小規模なサーキットでしたが、盛んにクラブマンレースが行われ、各自動車雑誌のページを飾ります。

ja.wikipedia.org

残念なことに船橋サーキットは1967年に閉鎖してしまいますが、モータースポーツの黎明期に浮谷東次郎、生沢徹などのスタードライバーが誕生したという功績を残したことは事実です。とくに浮谷は走ること以外にも多彩で「AUTO SPRT」の特集記事として「鈴鹿サーキットの攻め方」を寄稿。さらに「ドライバー」誌ではダイハツ・コンパーノなどの試乗インプレッションも行っています。また、「がむしゃら1500キロ」などの著書でも知られています。

👇ドライバー誌創刊の話はこちら。

yoiijima.hatenablog.com

(※画像はすべて許可を得て掲載しています。転載を禁じます)。

👇クリックをしていただけると励みになります。

👇より詳しく知りたいかたは、拙著「モータリゼーション自動車雑誌の研究」をご購読いただけると嬉しいです。