11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第4回となります。
後発のモータースポーツ専門誌としては、1969年に理工系出版社である山海堂から「オートテクニック」が創刊されました。「AUTO SPORT」が観戦型の雑誌だったのに対し、「オートテクニック」はレースに出場するための参加型の要素が強くなっていました。同誌の創刊編集長は尾崎桂治さん。尾崎さんは三栄書房の「モーターファン」編集部に在籍の後、山海堂に移籍し「内燃機関」の編集部にいました。創刊のきっかけとなるのは、同社の飯塚昭三さんから働きかけられたことと言います。
「山海堂というのはすごく保守的な会社で、辞めてもいいかなと思っていたところに飯塚君から話があった。僕はこんな会社でできるわけはないと思っていたんだけど、飯塚君が熱心だったし内容的にも興味がある部分だった。もうちょっと考えたら?とその時は言っておいたんだけど、飯塚君がすぐに30ページくらいの企画書を書いてきた。そこまで言うんだったらやろうということになった。ちょうど僕が「モーターファン」に入ったときに鈴鹿サーキットができて、第1回の日本グランプリのときは取材に行っていたから、ある程度事情に通じていたこともある」と尾崎さんは振り返ります。
積極的に同士の創刊を進めた飯塚さんは、山海堂に入社する以前からモータースポーツ好きで、自らもドライバーとしてレースに参加していました。
「第1回、第2回の日本グランプリは、観客として鈴鹿サーキットに見に行っています。山海堂に入社して、最初からモータースポーツ誌をやりたい気持ちはありました。当時は自動車の整備シリーズの書籍を作っていたのですが、執筆者の矢田平祐さんが「自動車工学」で自動車のチューニングアップの連載をしていたのを覚えていて、「自動車のチューニングアップ」という単行本を書いてもらいました。その本がけっこう売れて「オートテクニック」の企画が通る要因になったのではないかと思います」と言います。
企画が通ってからのことを尾崎さんはこう振り返ります。
「僕が最初に考えたのは「AUTO SPORT」のライバル誌を作る必要なないということ。あちらが観客席にいる人が読む雑誌だとしたら、僕はサーキットの中にいる人が読む本を作りたかった。それはドライバーだけではなく、コンストラクターやエンジニア、チューナー、それからラリー関係者も含めてモータースポーツを自分でやる人たちの本にしようと考えていた。望月修さん(三菱ワークスドライバーの後、モータージャーナリスト)のレーシングテクニックの連載なんていうのも、そのコンセプトから生まれた企画だった。メカニズムの記事しても「内燃機関」の編集部にいたからロータリーエンジンのチューニングだとか、プリンスR380の開発の話も依頼をはじめていました」
創刊号の同誌を見ると、稲垣謙治の劇画調のイラストによる表紙が目を惹きます。最初の扉ページにはカラーでガルウイングのメルセデス・ベンツC-111の写真が掲載されており、次の見開きページにはトヨタ7、日産R382のテストの様子が紹介され、時代の空気を感じられる部分です。「富士ゴールデン300キロレース第3戦」、「富士セダン・レース」、「富士ミニカーレース」などのレースレポートもマシン解説を交えて詳細に記されています。
特集として「現代における高性能車の条件」が掲載されており、日産の桜井真一郎とホンダの森潔、自動車評論家の星島浩が鼎談を行っていますが、内容はエンジンやサスペンションだけでなく、すでにエアロダイナミクスの問題にまで触れられているのが興味深いところ。加えてレーシングテクニックや「トヨタスポーツコーナー訪問」などのプライベーターのサーキット走行、マシンチューニングに役立つ記事も掲載されているのが、「参加型」を感じさせる部分です。
「僕はあまり部数を伸ばすことには神経をつかっていない。1960年代は自動車メーカーがレースを主導した。オイルショック以後の70年代はそれがなくなった。「オーテク」の功績はレースの底辺を広げるのに積極的な役割を果たしたことだと思う。ジムカーナも取り上げて、そういうのを盛んにするというのも意識的にやりました。ラリーもあちこちで散発的にやっていたのを、JMS日本シリーズとしてシリーズ化するのも中心になってやりました」と尾崎さんは言います。
二代目編集長となる飯塚さんは、尾崎さんとともに気づいてきた路線を継承していきます。1976年にはF1世界選手権イン・ジャパンが開催されます。フェラーリ、マクラーレン、タイレル(ティレル)、ロータス、日本製F1マシンであるコジマ(KE)などのF1マシンへの興味が高まり、世界のトップドライバーが来日し、高橋国光、高原敬武、長谷見昌弘、星野一義などの日本勢が混じって戦う構図が誌面を飾ります。折からのスーパーカーブームもそれに拍車をかけていました。「AUTO SPORT」、「オートテクニック」をはじめとしてモータースポーツ誌はもちろん、一般自動車雑誌も多くのページをさきF1記事を掲載しました。1977年のF1日本グランプリで観客を巻き込む死亡事故が発生してしまったため、以後10年間はF1は開催されなくなりますが、それでもF1ブームの余波は残り、国内レースは活性化していたと言えます。全日本F2、富士GC(グランチャンピオンレース)を頂点に、ツーリングカーレースもプライベーターを中心に活発に行われていました。ジムカーナなどの比較的手軽なモータースポーツも各所で行われるようになりました。
「広告もどんどん増えていく時代でした。モータースポーツ関係、クルマの用品、部品業界も成長期に入っていました。そういう時代から雑誌も広告媒体としてよかったのだろうと思います。本誌もすごく厚くなっていきました」と飯塚さんは当時を回想します。
さらに同誌はラリーにも強く、編集部が国内外のラリーを積極的に取材していました。WRCとなる以前の海外ラリーも積極的に取材をし、後にはWRC全戦を取材、ラリーファンの支持も集めました。
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