自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

「グループAレース クロニクル JTC9年間の軌跡」刊行に寄せて

1985年のインターTECはボルボ240ターボの独壇場。それに続くのがスタリオン。

グループAによる全日本ツーリングカー選手権が盛り上がった!

「グループAレース クロニクル 1985-1993 JTC9年間の軌跡(モーターマガジン社)」というムックを企画、編集、執筆した。この9年間は日本のツーリングカーレースで最も熱く、人気を得た時代だった。もともとグループAという車両規定は、「自動車レースというのは放っておけば際限なくお金の掛かるものなので、改造範囲を絞り普通のクルマで、できるだけコストをかけずにやろう」というコンセプトというか建前から生まれたと言っていいだろう。それによる本格的な国内レース(JTC:全日本ツーリングカー選手権)が始まったのが1985年で、私は19歳の頃だから一応大学生で、アルバイトとしてモータースポーツ専門誌の編集部員になる前のことだ。

実はその頃ほとんどレースへの興味を失っていた。もともとF1ファンではあったが1980年代に入ると、自分も成長したのか?なにやら非常に縁遠い世界に感じられたし、趣味でレースに出るにもけっこうなお金が掛かる現実にちょっとうんざりしていた。ただ、モータースポーツ全般に興味を失っていたわけでもなく、当時、グループAの上位カテゴリーで改造範囲が広かったグループBによるラリー記事を読むことや、そうしたグループBのアウディスポーツクワトロ、プジョー205ターボ16、ランチアデルタS4などが大迫力で走る映像をビデオで見ることに熱中していた。そんなこともありグループAでJTCが始まったということに対してあまり興味はなかったし、85年がグループAによるJTCの初シーズンだったという記憶もない。

ボルボ240ターボが速いことを知る人はかなりマニアックだったのでは?

そんな状態でも、85年末にインターTECという国際格式のグループAレースがあり、ボルボが圧倒的に速かったというのは、自動車雑誌を中心にけっこう話題になっていた記憶がある。私にもボルボスウェーデンの自動車メーカーという程度の知識があるのみで、ほぼ興味の対象外。当時は代理店の関係で「帝人ボルボ」と名乗っていたが、「なぜ帝人?」という思いもあったりした。その後、「ボルボ ジャパン」になってから安全性を強く打ち出したり、頑丈だから身体を守りたいスポーツ選手が乗っているということが喧伝されたりされたように思う。

1985年の第1回インターTECの記事はおそらく「オートスポーツ誌」か「オートテクニック誌」のどちらか、あるいは両方で読んだのだと思うが、ボルボ240ターボはお世辞にもかっこいいとは言えない。当時は「フライング・ブリック」というよりは「走る弁当箱」みたいに言われていたのではないかと思う。ただ、欧州のレーシングカーの懐の深さを感じたのは事実だった。

さらにその年のインターTEC意外だったのが、スタリオンの登場だ。「スタリオンってこんなに速いんだ」ということと、かつての日産の顔とも言える高橋国光選手が三菱車に乗っていることが驚きだった。三菱(というか、その当時は日産もトヨタも、だったが)といえば、「ラリーの」という枕詞が付くイメージだったのが、日産、トヨタに比べると三菱は国際ラリーではぱっとしないなと思っていたところへ、スタリオンのレース参戦で、唯一海外勢に応戦していることに驚いた。

インターTECでスタリオンが株を上げたのは事実だ。

三菱のサーキットレースというと、家にあった子供向けの百科事典の「機械・工業」巻に雨の中で走る「コルトF2000」の写真がキャプション程度の解説で載っていたくらいでレースに出てくるとは思っていなかった。ボルボよりは身近ではあったが、ほぼ同様にスタリオンも「よくわからないクルマ」という認識だったのが、「サーキットで速いクルマ」というふうに記憶が書き換えられた。あとは、「スカイラインはもうちょっと何とかならないのかな?」という感じがこのレースの感想だった。

ただ、今になってグループAレースが人気があって当然だろうなと思うのが、当時の私の回りにあったクルマを思い返すとはっきりする。その頃は某高校でアルバイトをしていたのだが、先生達のクルマがS12シルビアRSだったりAE82カローラFXだったりした。さすがにスカイラインRSやボルボはいなかったが、そうした身近なクルマが走っていたJTCの人気もむべなるかなと思う。逆に今でも大人気のAE86レビン/トレノは、モータースポーツを考えた場合当たり前過ぎる選択で、とくに話題にもならなかった。

その後、インターTECにはジャガーXJSが来たり、フォードシエラRSコスワースが来たり、ベンツ190E2.3-16コスワースが来たりと、大雑把ながら概要は認識していた。トヨタが全然だめだったセリカXXから3.0リッターターボのMA70スープラを投入。それに、ウイリアムズでF1タイトルを獲ったアラン・ジョーンズを連れてきて乗せ、インターTECではないが、スポーツランド菅生で優勝してしまうということもあった。

1987年の第4戦ではMA70スープラがデビューウイン。

F1のタイトルホルダーと言えば1978年/マリオ・アンドレッティ、1979年/ジョディ・シェクター、1980年/アラン・ジョーンズ、1981年/ネルソン・ピケと記憶しているほど、このあたりまでが「マイF1ブーム」だったので、国内登場はかなりインパクトのある出来事だった。横道ついでに書くと、ウイリアムズも毎回テールエンダーみたいなチームだったのが、スポンサーがついて資金難から脱するといきなり速くなった印象がある。「やっぱりレースはお金なんだな…」ということを14、5歳にして感じたものだ。

日産が見せたモータースポーツ魂がグループAを決定づけた

1987年になると、日産がスカイラインGTS-Rを投入する。この頃は私はアルバイトでモータースポーツ誌の編集をしていた頃になる。ただ、私はダートトライアルを担当していたために、ほぼ同時期に発売されたブルーバードSSS-Rに目が行っており、そんなに強い印象は持っていない。ただ、当時念願のジェミニZZ-Rを入手した私は、夜な夜な?東京の西部奥地に行くようになっており、その折に日産自動車村山工場工場の前を通りかかったときに、ゲートから工場の制服を来た2名を乗せたGTS-Rが出てきた場面に遭遇したことがある。もしかすると正式発売の直前だったかもしれない。何らかのテストドライブだったのだろう。

さすがにその後を追うことまではしなかったが、ハイソカー然としたそれまでのR31スカイラインとは違った迫力をまとっており、メーカーも本気なんだなという思いを抱いたのは事実だ。ただ、レースというのは放っておくと加熱してしまうものなのはお決まり。当初の普通にあるクルマを、グループA規定内でチューニングして…という感じではなく、メーカーが本腰を入れてということになると、プライベーターには付け入る隙はなくなってしまったのは事実だ。

車両自体も価格が高くなり、多くのスポンサーを集めて、メーカーや有力チューナーがチューニングしたクルマでしか勝負できなくなる。ただ、どの車種にも勝てる可能性があるという部分では、このスカイラインGTS-RやスープラターボAの登場くらいまでという面白さは残されていたように思う。

BNR32スカイラインGT-Rの登場はあらゆる意味でグループAを決定づけた。

BNR32スカイラインGTRが登場したのが平成元年(1989年)のことだ。グループAで勝つためのあらゆる要素を盛り込んだこのクルマが出てくると、国産車はもちろん欧州車勢も駆逐してしまった。もっとも欧州は欧州ですでにグループA自体が衰退していたという事情もあるが。日産ファンはこれにハコスカGT-R時代の伝説を重ねて見ていた。そしてドライバーは高橋国光長谷見昌弘など当時のドライバー自体が走っているのだから、感慨はひとしおだっただろう。1990年の西日本サーキットから1993年の最後のインターTECまで負け知らずの強さを見せることになる。

とくに日産党ではなかった私はスカイラインGT-Rに関しては、「すごいな…」と思うのと同時にクルマというよりは「レースに勝つための機械」という感じで、どうも愛着が湧きにくい感じを持ったのも事実。買えるはずの価格ではなかった分もその印象に込められているようには思うが。横道ついでにさらに書けば、その当時の上司がこのスカイラインGT-Rを購入した。彼はもちろん我が子のようにGT-Rを愛していたように見えたし、無作法にでも触れようものなら、烈火のように怒ったに違いない。まあ、人それぞれ。

そういえばハイパワー4WDということで、意外にもラリー、ダートトライアルといった土系のドライバーに人気だったことも付け加えておこう。全日本ラリーで複数回チャンピオンタイトルを得て、WRCにも参加したS選手は、スポーツランド信州のギャラリーコーナーに本気でツッコミクラッシュした。実は、その日は直前までパルサーGTi-Rで走行しており、軽く流す程度で走るつもりだったのが、走っているうちにパルサーに乗っているつもりになり、コーナー内部でGT-Rであることに気がついたと、本人は語っているのでご愛嬌ということころ。

スカイラインGT-R自体はダートトライアルで複数台が改造車として参加し、一定の成績を収めている。ナンバー付きでも91、92年頃に「トラストスーパートライアル」という優勝賞金200万円というダートトライアルイベントがあり、私の懇意にしている全日本ダートトライアルドライバーも、自らのGT-Rにウェット用のSタイヤを履かせて総合優勝狙いでエントリーしていた。

これは私が最近?まで載っていたBMW M3…。

グループAでの一台ということで言えば、BMW M3の活躍も忘れてはいけないところ。ディビジョン1に括られるスカイラインGT-Rの下のディビジョン2となりクラス違いではあるが、実は1987年の登場以来、1993年のグループAの最終戦までほぼ敵なしの状態となる。このクルマは私の憧れのクルマの1台であり、大分後のことになるが入手するという幸運に恵まれた。書き始めるとおそらくキリが無くなるので、ご要望があればまたの機会にでも書きたいと思う。

ということで、「グループAレースクロニクル JTC9年間の軌跡」好評発売中です。どうぞよろしく。

 

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