自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

戦前の自動車雑誌 その弐

執筆中の単行本ネタから。

 1918年に創刊した『スピード』は、モータージャーナリストの神田重巳氏が三栄書房の社史である『三栄書房60年の轍』での文章や八重洲出版の『ドライバー』誌のコラムで述懐している。神田氏が同誌に詳しいのは、神田氏の父君が『スピード』の編集部に加わる中一夫氏と親交が深かったことにあるそうだ。

 発行人は相羽有(あいばたもつ)。発行所は日本飛行学校出版部だったりスピード社だったりとちょっとアバウト。相羽は日清戦争直後、20世紀の到来を直前に控える1890年代中葉に栃木県の素封家の長男として生まれた。経歴はかなり破天荒というか山あり谷ありという感じ。大正初期の1910年代に20歳代で日本飛行学校を開設し校長に就任するが、自校の宣伝のためビラ撒き飛行した際に墜落、教官の飛行士と練習機とを一挙に失うという事態が起きる。それを回復するために寄付を募ったり、実技免除・講義録による校外生の通信教育で切り抜けた。

 しかし、今度は台風と津波に見舞われて東京湾岸の格納庫と共に飛行機を全部吹き飛ばされてしまうという不運が襲う。それでも屈せず第一次大戦の好況を背景として、アメリカの量産大衆車としてフォードに対抗するスター(Star)の輸入、ノックダウン組立販売を目的とする日米スター自動車を大阪に設立した。この会社は、自動車ブームの追い風で当時300万以上といわれる利益をあげたとみられる。相羽は、この資金を自動車学校の再建強力化、飛行科の併合など事業発展の基礎固めに費やし、併せて講義録の製作に始まった出版部門も強化発展させて月刊飛行機・自動車雑誌『スピード』を帝国飛行協会の機関誌として発刊させた。

 神田氏は、同誌は多面的な広がりを持つ、おもしろい雑誌だったと回想している。A4判100ページ足らずのフォーマット。グラビアページにグランプリレースの写真や最新ヨーロッパ者の計器板デザイン一覧が載ったりと趣味性を持たせる一方、営業運転手免許試験の問題集をしばしば載せるなど、実用性も持っていた。

 

 戦前の自動車雑誌 その弐

 1918年に創刊した『スピード』は、モータージャーナリストの神田重巳氏が三栄書房の社史である『三栄書房60年の轍』での文章や八重洲出版の『ドライバー』誌のコラムで述懐している。神田氏が同誌に詳しいのは、神田氏の父君が『スピード』の編集部に加わる中一夫氏と親交が深かったことにあるそうだ。発行人は相羽有(あいばたもつ)。発行所は日本飛行学校出版部だったりスピード社だったりとちょっとアバウト。相羽は日清戦争直後、20世紀の到来を直前に控える1890年代中葉に栃木県の素封家の長男として生まれた。経歴はかなり破天荒というか山あり谷ありという感じ。大正初期の1910年代に20歳代で日本飛行学校を開設し校長に就任するが、自校の宣伝のためビラ撒き飛行した際に墜落、教官の飛行士と練習機とを一挙に失うという事態が起きる。それを回復するために寄付を募ったり、実技免除・講義録による校外生の通信教育で切り抜けた。
 しかし、今度は台風と津波に見舞われて東京湾岸の格納庫と共に飛行機を全部吹き飛ばされてしまうという不運が襲う。それでも屈せず第一次大戦の好況を背景として、アメリカの量産大衆車としてフォードに対抗するスター(Star)の輸入、ノックダウン組立販売を目的とする日米スター自動車を大阪に設立した。この会社は、自動車ブームの追い風で当時300万以上といわれる利益をあげたとみられる。相羽は、この資金を自動車学校の再建強力化、飛行科の併合など事業発展の基礎固めに費やし、併せて講義録の製作に始まった出版部門も強化発展させて月刊飛行機・自動車雑誌『スピード』を帝国飛行協会の機関誌として発刊させた。
 神田氏は、同誌は多面的な広がりを持つ、おもしろい雑誌だったと回想している。A4判100ページ足らずのフォーマット。グラビアページにグランプリレースの写真や最新ヨーロッパ者の計器板デザイン一覧が載ったりと趣味性を持たせる一方、営業運転手免許試験の問題集をしばしば載せるなど、実用性も持っていた。
はてなブログに移動する方向です。http://yoiijima.hatenablog.com/

戦前の自動車雑誌

 現在執筆中の単行本のネタから少し……。齋藤俊彦氏の著作によると、日本で一番古い自動車雑誌は1912年に創刊された『飛行器ト自動車』らしい。発行元は東京自動社、後に茗渓会の発行となっている。私は、まだ実物を見たことがないが、東京大学明治新聞雑誌文庫に収められているようなので、資料を取り寄せてみるつもり。
 続いて創刊された『自動車』に関しては『カーグラフィック』誌の1968年10月号に紹介記事を見ることができる。『大正初年の雑誌「JIDOSHA,自動車」』というタイトルで、執筆者はイミターチォ・セシリ氏。記事によると同誌の判型は横23センチ、たて28センチというからA4判よりも少し大きいくらいだ。一冊の中程に水色の紙の広告ページがあって、それを境にして、邦文と英文の二部からできている。セシリ氏は記事中で、同誌の表紙の構成、扉や本文のカットの素晴らしさ、文字、文字の配置などの素晴らしさを挙げている。記事内容は、国内旅行記が中心を占め、東北、軽井沢、青梅、草津、九十九里浜などが取り上げられているそうだ。
 同誌は、当時の外国商社の社長達や国内で自家用車を持っていたいわゆる「特権階級」の人達が集まって作った「日本オートモビール・クラブ」の機関誌で、そのクラブの役員には、大倉喜七郎、藤原俊雄など。他に外国人も名前を連ねている。ちなみに大倉氏はケンブリッジ大学に留学していた時代、イギリス初のレーシングコースのブルックランズで開催された30マイル・モンタギュー・カップで2位に入賞した、当時のカーマニア。ただ、贅沢な作りだった同誌も1914年以降、全体に質が落ち、表紙と編集デザインは、はじめとは雲泥の差生まで低落していると記事中にある。
 続いて1913年に創刊した『モーター』は、山本豊村が創刊した自動車・オートバイ・航空機専門誌だ。ちなみに1913年当時は、自動車台数は特殊自動車を加えて761台という時代。同誌は、太平洋戦争が始まった翌年の1942年11月の雑誌統合まで発行を続けた。山本は、1883年頃、新潟県東頚城郡沖見村平方(現上越市牧区平方)で生まれた。早稲田大学英文科に入学し、1903年卒業後した後、1913年8月に『モーター』の創刊に至る。同誌は、自動車関係の各方面の専門化、団体首脳、経営者、学会、交通警察を始め諸省の官僚・軍人(軍用自動車関係)など多彩な執筆者が寄稿していた。これは国会図書館マイクロフィルムで読むことができる。(うちの近所の古書店にも在庫がありますが、1冊2万円です)。

プレイドライブ創刊編集長に聞く

 ひとつの仕事の山を超えて、懸案の単行本の原稿に落ち着いてとりかかれる状態になってきた。今日は単行本の取材をしてきた中でのこぼれ話、『プレイドライブ』の巻だ。同誌は、モータスポーツに参加する人を対象とした雑誌だ。どちらかというと土系(ラリー、ダートトライアル)のイメージが強いと思う。その前身となる『ドライブ旅行』の創刊は1968年までさかのぼる。

 今回、前々編集長や前編集長のツテで、幸いにも創刊編集長の宝崎氏にお会いする機会を得た。ちなみに宝崎氏の現在の愛車はマツダ・ロードスター。「せっかくだから、なるべくオープンにして乗ります」と言い、思い立ったらお気に入りの美術館に行くため“だけ”に岡山まで一気に走ってしまう、“ドライブ旅行”を現在でも実行しているような感じの人だ。

 いろいろな話を聞けたのだが、まず創刊時の誌名からもわかるように、最初は、モータースポーツ雑誌という意識は全くなかった。モータリゼーションが拡大する中、「何か面白いものをやりたいな」という思いで始めたそうだ。当初は海潮社という出版社から発行していたが、これも『ドライブ旅行』を発行するために作った会社。そして、クルマを使って美味しいものを食べに行ったり、温泉に行ったり、スキーにいったりというクルマによるレジャーを中心にした誌面作りが始まった。

 ラリーと出会ったのが69年の第1回DCCSウインターラリー。「取材に行っても、初めてだから右も左も分からない。ただ、とにかくコマ地図に興味を持った。そして、コマ地図を使ってドライブしたら面白いのではと閃いたんですよ」と宝崎氏。コマ地図は、普通の地図と違って、俯瞰的に見ることができない。その場に行ってみないと、どういう場所なのかがわからない。コマ地図の先には思いもかけない景色が広がっていたりする楽しみがある。そんなところに魅力を感じたそうだ。ただ「ラリー競技の面白さのほうは全然わからなかった」と言う……。

 さっそく宝崎氏は雑誌作りにそれを生かしていくことになる。最初は編集部でコマ地図を使ってドライブコースを作り誌面展開していたが、ノウハウなしにコマ地図を作るのは難しい。容易に想像できることだが、間違ったコマ図を誌面に掲載してしまった。これがラリー関係者の目に止まる。編集部に当時のトップナビゲーターから連絡があり、「素人がコマ地図を作るなんて危険極まりない。私に作らせなさい」というような成り行きとなった。それをきっかけに同誌はラリー色が段々強くなっていく。

 宝崎氏が編集長をしていた70年代半ばまでは、モータースポーツ誌として作っていたわけではなく、試行錯誤を続けていた状態だったそうだ。「コマ地図間違いの一件がなかったら、全く違った雑誌……純粋にコマ地図を使ったドライブを楽しむ方向に行っていたかもしれません」。そう語るのを聞きながら、もしかしたら、そっちの方向を望んでいたのかな? と私は思った。ちなみに取材時、宝崎氏は一冊の自動車雑誌を手にしていた。「最近はほとんど買わないんですが、表紙にあった“旅”という文字にひかれたんですよ」と、それくらい旅にこだわりを持っているようなのだ。

 もちろん、それはそれとして『プレイドライブ』がモータースポーツの下支えをしてきたのは事実。ただ、モータースポーツ専門誌としての『プレイドライブ』は、意図されたものではなくて、コマ地図に興味を持ったことと、その後のミスという偶然から派生したものだったというのも雑誌作りの面白みだと思う。

単行本の取材を続けています

 ということで(この間、5ヵ月ですが……)、株式会社グランプリ出版から新刊を出すためにいろいろな自動車雑誌の編集部を訪問している。単行本は、一番最近のものでも2009年なので、ずいぶんと間が空いてしまった。ちなみに、これが出れば6冊目の自著になる。最低でも一年一冊くらいは出したいと考えているが、こういう時代なので、なかなか思うようには行かない……。

 正式な本のタイトルはまだ決まっていないが、「自動車雑誌の歴史(仮題)」というような、ずいぶんと大上段に構えた企画書を持って歩いている。私も楽しいことやつらいことを経験しながら、多くの自動車雑誌に携わってきた。一読者だった雑誌、執筆させてもらったことがある雑誌、あまり縁のなかった雑誌などを含め約30誌をピックアップした。

 そこで各誌の元・現役を含めた編集長、関係者を中心にインタビューして、創刊当時の話や、良かった時代、悪かった時代?、現在の話を含めて一冊にまとめてみよう。しかも、日本のモータリゼーションとどのようにリンクしているのか考察してみようという、自分の力を勘違いしたような企て? に、“日暮れて道遠し”の悲哀を味わっているところ。

いずれにしても、今までの同社の単行本の切り口とは違ったものになるのではないかと勝手に思っている。詳しい内容は、このブログでもおいおい明かして(そんな大げさなものではありませんが……)いくつもりなのので、よろしくお願いします!

国立国会図書館で

 調べものをするために、国会図書館に行ってきた。ゴールデンウイークの間だから、そんなに混んでいないだろうと読んでいたのだが、普段にくらべてかなり人口密度が高い感じで、ちょっと疲れた。70年代あたりの自動車雑誌は、現代とくらべれば野蛮なところがあるが、そういう面も含めて面白い。自動車雑誌=自動車レース雑誌のような感もあると再認識した。

神田神保町で

 神田神保町に行って、単行本の参考になりそうな本を探す。菅村書店で『スピードライフ』1954年3月号を買った。硬軟取り混ぜた内容になっていて、なかなか面白い。その中に、陸王の広告を見つけて「そういえば、うちの親父も陸王に乗っていたな」と思い、「乗ってたのこれ?」と聞くと「俺は750だ」と言われた。あと、「陸王だけじゃなくて、ハーレーも持っていた」と念押しされた……。

 ちなみに、親父は自動車板金塗装業をしていて、城北ライダース(知らないかな?)と親交があったらしく、ヘルメットのカラーリングをしていたという(本人談)。「はじめは数個だったのが、しまいには20個くらい塗装することになって大変だった」とも言っていた。古きよき思い出なんだろう。

北沢氏の講演

 ジャーナリストの北沢栄氏の講演会に行く。先日、急に電話がかかってきて、何事だろうとちょっとひるんだのだが、「4月6日の夕方、空いているなら来なさい」(こんな脅迫的なもの言いではなかったが……)という連絡だった。ということで、一も二もなく参加した。

 テーマは「社会保障と消費税のあるべき本当の姿」(レジュメ:PDF)。政治や行政に裏切られ続けて、あきらめムードが漂うなかで、北沢氏が精力的に調査しつづけ、改革案を出す姿勢に感銘を受けた。あきらめてはだめだ。

グランプリ出版へ

 あらかじめグランプリ出版のK編集長に提出してあった企画の説明をするために、グランプリ出版にお邪魔する。こういう機会は久しぶりだったので、大変緊張してしまった。K編集長は、大変丁寧に対応してくれて、企画を修正したのち編集会議にかけてくれるとのこと。ありがとうございます。