自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

2018年11月21日の写真から。篠塚建次郎選手に聞いたあんなことこんなこと。

アフリカエコレースの出発直前でしたが、たまたま都内に来るということで時間を取っていただきました。

もう5年以上前です。この日はホリデーオート誌の編集部員として篠塚建次郎さんにインタビューをしました。ライターは別の方にお願いしています。90年代、パリ~ダカールラリーの参戦報告会でインタビューさせて頂いて以来でしたので、30年ぶりに近い感じでした。気さくな上に話が上手なのでインタビュアーとしては、大変やりやすい方でもありました。

私はもともとラリーファンでもあったので、「篠塚建次郎」という名前は高校生くらいの頃には知っていました。ただ、失礼ながら70年代にサザンクロスやサファリでランサーに乗って活躍した過去のドライバーという認識でした。それが、1980年代に入るとパリ~ダカールで復帰して活躍を続けます。「まだ走るんだ」というのが当時の驚きでした。

ちなみにパリ~ダカールというのはFIA国際自動車連盟)の競技カテゴリーとしては「ラリーレイド」になっているので、せっかくなら本来の「ラリー」の走りも見たいという気持ちもあったのですが、1991年のコートジボワールラリーでギャランVR-4に乗り、日本人として初めてWRC世界ラリー選手権)優勝を果たし、パリ~ダカでも97年に日本人初の総合優勝を果たすなど、さすがというか、いつも日の当たる場所にいた人というイメージです。

「三菱の社員だからラリーに出るには企画書を作るわけ。で、ドライバーのところに自分で篠塚建次郎って書いちゃうんだよね。通らなかったらどうしようとか思いながら」と当時のことを笑いながら話していたのが印象的でした。

こんなことを踏まえて「篠塚さんって、何か持って生まれたものがあるというか、いつも日の当たる場所にいてうらやましいです感じですよね」と不躾な質問?をしたのですが、そのときに微妙な表情をして「そんなことないよ。そういうところしか表に出ないからじゃない。実情はいろいろ大変で…」というような主旨のことを話してくれました。

「三菱ワークスの頃は周りに人が集まっていて華やかに見えたかもしれないけど、三菱辞めてからあまり誰も来なくなったし、(メディアの)扱いも変わったよね」というようなことも言っていました。確かに、人を上げ下げするメディア側も反省しなければならないし、さらには御本人にしかわからない肌感覚のようなものもあったのかもしれません。

ところでこの日、興味深い話をされていました。雑誌のインタビューにも書いていないのですが「三菱を辞める必要はなかったのかもしれないんだよなあ」と言うのです。もちろん、当時の報道では「マネージャー転身を勧める三菱と、ドライバーにこだわる篠塚氏との話し合いの上、円満退社」となっていますので、公式にはそうなのでしょうが、それだけでは語れない部分はあったようです。この辺は尾ひれがつくと困るので、ここまでにしておきます。