自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

BMW M3、仮ナンバーを取得して走らせてみました。

M3の続きです。Y君によると、「エンジンは定期的にかけていたし、特に悪いところはないです」ということ。ボンネットの中にはS14ユニットが収まっています。2.3リッターで195PSというのは、現代の国産エンジンから見るともの足りない感じですが、見た目はなかなかいい感じ。エンジンをかけるのに儀式があるのも、ちょっとマニアックです。

f:id:yoiijima:20130824144116j:plain

というわけで、自賠責保険に加入して、市役所で仮ナンバーを借りてきました。ウインカー、ブレーキランプ、ライト類、エンジンオイルや冷却水、足回りなどをひととおりチェックして試運転です。

f:id:yoiijima:20130831115519j:plain

左ハンドルのマニュアル車に乗るのは、グラン・カナリアでフォードKaのレンタカーに一週間乗ったのを最後に10年以上ぶりだったので、ちょっと緊張しました(笑)

『飛行器ト自動車』。100年前の自動車雑誌

 1911(明治44)年に発行された『飛行器ト自動車』です。日本最古の自動車雑誌と推定されています。写真のバックナンバーは東大の中にある「明治新聞雑誌文庫」にありました。宮武外骨のコレクションです。当時は、クルマがまだ200台から300台しかない時代。しかも東京と横浜がほとんどと本文中にありました。どんな人たちが読んでいたのでしょうかね? クルマで日本一周しようとしたものの、道がひどく、壊れても修理もできずに挫折した人の談話が載っていたりします……

f:id:yoiijima:20130423151446j:plain

『町工場からの宣戦布告』 中小企業とメガバンクの死力を尽くした戦

 北沢栄氏の新著『町工場からの宣戦布告』が発行された。近年、北沢氏はジャーナリストとして公益法人独立行政法人などの行政問題についての著作を中心に発表していたが、久しぶりの小説となった。舞台は 東大阪市にある電気部品メーカー「ダイア産業」。ポイントとなるのは、グローバル化の波に飲み込まれる中小企業、銀行の本分をないがしろにした業務、そしてその対応戦略となる。
 ダイア産業は、大手電機会社の下請け業務を柱に堅実な経営をしてきたが、主要取引先がコストカットのために製造拠点を中国に移転し、突然仕事が激減することがストーリーの発端となる。ダイア産業の大幅な業績の悪化は免れない。しかも、その苦境を聞きつけたメインバンクが貸し剥がしに走る……となれば、直に倒産の憂き目を見るのは避けられない。ダイア産業としても、倒産は時間の問題となるが、そこから主人公の湊京太の戦いが始まる。
 出口の見えない不況の中、多くの企業が苦境に喘いでいる。さらに中小企業に至ってはその大多数が赤字経営とされている。大手銀行は、中小企業が危機だと見れば、それを支援するどころか、貸し剥がしに走り、弱みに漬け込んだ高リスクのデリバティブの勧誘など行うことも茶飯事であると著者は問題提起している。銀行にとって弱者たる中小企業の息の根を止めることは、赤子の手をひねるも同然だ。近年、自殺者は減少に転じたという統計は出ているが、中小企業経営者、自営業者の自殺があとを絶たない状況は続いており、痛ましい状況は続いている。
 その点、主人公の湊は恵まれているといえる。自身の能力の高さ、周囲の有能なブレーンに支えられて苦境に対処していくことができる状況にあるからだ。「実話小説」と銘打っているからには、モデルとなる企業が存在しているのだろう。そう考えれば痛快でもある。
 この小説には考えさせられることが多い。単なる大企業、大資本悪玉、中小企業善玉論に留まっていないからだろう。中小企業が弱い立場というのは認めるが、だからと言って善玉というわけにもいかない。現実には、中小企業の経営者であっても、自分の保身を第一に考える場合も少なくなく、社長という肩書きに執着し、社員を消耗品と考えている場合も多い。
 半面、この小説では、良心的な官僚、銀行も登場し、悪徳と描かれている銀行員にも、家族があり、家庭では献身的な夫として病を得た妻を介護しつつ必死に生活している側面を描き出している。これによりストーリーに深みが出ている。小が大に勝つ戦略の面白みだけでなく、大には大なりの事情があると示しているのだ。さらに湊の家族を中心としたサブストーリーも興味深く読める。
 小説としてはもちろん、実用書としても示唆に富むものとなっている。昨今の薄っぺらなビジネス書を読むよりも、はるかに本書から得るものが多いだろう。
・北沢栄氏のウェブサイト「NAGURICOM] http://the-naguri.com/

戦前の自動車雑誌 その肆

執筆中の単行本のネタから……。

 戦前の自動車雑誌の創刊当時の背景を俯瞰すると、1914年には快進自動車工業が日本初の国産自動車「脱兎号」を東京上野で開催された東京大正博覧会に出品している。1915年には貿易商社ヤナセ商会がキャデラックビュイックの輸入を開始。また1917年には三菱造船が三菱A型乗用車を少数(22台)ながら製造した。1918年には軍用自動車保護法が施行され、陸軍の主導による国産自動車育成方針が打ち出され、重工業の基盤が確立されたことで日本の自動車産業が期待されるようになった。このような状況の中、東京瓦斯電気工業が、1918年に軍用保護自動車第1号となるトラックを開発した。1923年には豊川順弥が設立した白楊社が日本初の本格的乗用車「アレス号」「オートモ号」を製造販売している。特に性能の良かったオートモ号は、約300台が生産され、上海にも輸出された。

 1923年に関東大震災が発生、東京は壊滅的な被害を受けたものの、復興テンポは早かった。1926年には豊田佐吉豊田自動織機を設立。同年に快進社ダット自動車製造から発展したダットサン自動車製造会社が設立されている。1925年フォード社は、横浜近代的な自動車製造工場建設し稼働を始めた。これを警戒して、日本政府1936年に「自動車製造事業法」を制定、国内資本が50%以上の企業でなければ自動車生産を認めないこととした。このためフォードや同じく日本に進出していたGM1940年に創業を停止した。1932年には日本内燃機が発足し、1933年豊田自動織機自動車部を設立している。軍用乗用車としてだが、1933年に石川島自動車製作所で作られた「すみだ九十三式J型(4輪)、K型(6輪)」が登場。日本内燃機は陸軍からの要請により戦場での指揮、連絡用として小型の乗用4輪駆動車の「くろがね四起(九十五式小型乗用車)」を開発し1935年に製造を開始した。

 『モーターファン』誌は1925年に創刊されている。三栄書房の社史『三栄書房60年の轍』の松本晴比古氏の記述によると、当時の出版元はアメリカ通信社。ただし、この時代のことを『モーターファン』から知ることはできない。それはアメリカ通信社時代のバックナンバー現存しておらず(個人所有の方はいるかもしれないが)、国会図書館などで確認できるのは、社名が「モーターファン社」となっている1939年以降のものになるからだ。誌面にもすでに軍事色が現れている。内容的には、その後の満州事変や中国侵攻のため大半をアメリカから頼っていた原油の入手が難しくなり、木炭、薪炭瓦斯などの代替燃料に関する考察も多い。また、メイン記事を総理大臣をはじめとする政治家官僚が執筆しており、一般的な雑誌とはいえないものとなっている。1943年になると、「国防自動車科学普及雑誌」というサブタイトルが付けられた。同年5月号からは、題字を『モーターファン』から『自動車日本』に変更した。敵性外国語である英語のタイトルから変更せざるを得なかったのだろう。6月号からは、発行元が「モーターファン社」から「自動車日本社」に社名を変更。1944年3月号で、戦況が厳しくなったこと、用紙の確保の問題などがあったと想像されるが休刊となり、復刊は戦後1947年12月となる。(参考文献:『三栄書房60年の轍』)

戦前の自動車雑誌 その参

執筆中の単行本のネタから……。
 戦前の自動車雑誌の創刊当時の背景を俯瞰すると、1914年には快進自動車工業が日本初の国産自動車「ダット号」を東京・上野で開催された東京大正博覧会に出品している。1915年には貿易商社のヤナセ商会がキャデラック、ビュイックの輸入を開始。また1917年には三菱造船が三菱A型乗用車を少数(22台)ながら製造した。1918年には軍用自動車保護法が施行され、陸軍の主導による国産自動車育成方針が打ち出され、重工業の基盤が確立されたことで日本の自動車産業が期待されるようになった。このような状況の中、東京瓦斯電気工業が、1918年に軍用保護自動車第1号となるトラックを開発した。1923年には豊川順弥が設立した白楊社が日本初の本格的乗用車「アレス号」「オートモ号」を製造販売している。特に性能の良かったオートモ号は、約300台が生産され、上海にも輸出された。
 1923年に関東大震災が発生、東京は壊滅的な被害を受けたものの、復興のテンポは早かった。1926年には豊田佐吉豊田自動織機を設立。同年に快進社ダット自動車製造から発展したダットサン自動車製造会社が設立されている。1925年にフォード社は、横浜に近代的な自動車製造工場を建設し稼働を始めた。これを警戒して、日本政府は1936年に「自動車製造事業法」を制定、国内資本が50%以上の企業でなければ自動車生産を認めないこととした。このためフォードや同じく日本に進出していたGMが1940年に創業を停止した。1932年には日本内燃機が発足し、1933年に豊田自動織機は自動車部を設立している。軍用乗用車としてだが、1933年に石川島自動車製作所で作られた「すみだ九十三式J型(4輪)、K型(6輪)」が登場。日本内燃機は陸軍からの要請により戦場での指揮、連絡用として小型の乗用4輪駆動車の「くろがね四起(九十五式小型乗用車)」を開発し1935年に製造を開始した。
 『モーターファン』誌は1925年に創刊されている。三栄書房の社史『三栄書房60年の轍』の松本晴比古氏の記述によると、当時の出版元はアメリカ通信社。ただし、この時代のことを『モーターファン』から知ることはできない。それはアメリカ通信社時代のバックナンバーが現存しておらず(個人所有の方はいるかもしれないが)、国会図書館などで確認できるのは、社名が「モーターファン社」となっている1939年以降のものになるからだ。誌面にもすでに軍事色が現れている。内容的には、その後の満州事変や中国侵攻のため大半をアメリカから頼っていた原油の入手が難しくなり、木炭、薪炭瓦斯などの代替燃料に関する考察も多い。また、メイン記事を総理大臣をはじめとする政治家や官僚が執筆しており、一般的な雑誌とはいえないものとなっている。1943年になると、「国防自動車科学普及雑誌」というサブタイトルが付けられた。同年5月号からは、題字を『モーターファン』から『自動車日本』に変更した。敵性外国語である英語のタイトルから変更せざるを得なかったのだろう。6月号からは、発行元が「モーターファン社」から「自動車日本社」に社名を変更。1944年3月号で、戦況が厳しくなったこと、用紙の確保の問題などがあったと想像されるが休刊となり、復刊は戦後の1947年12月となる。(参考文献:『三栄書房60年の轍』)

戦前の自動車雑誌 その弐

執筆中の単行本ネタから。

 1918年に創刊した『スピード』は、モータージャーナリストの神田重巳氏が三栄書房の社史である『三栄書房60年の轍』での文章や八重洲出版の『ドライバー』誌のコラムで述懐している。神田氏が同誌に詳しいのは、神田氏の父君が『スピード』の編集部に加わる中一夫氏と親交が深かったことにあるそうだ。

 発行人は相羽有(あいばたもつ)。発行所は日本飛行学校出版部だったりスピード社だったりとちょっとアバウト。相羽は日清戦争直後、20世紀の到来を直前に控える1890年代中葉に栃木県の素封家の長男として生まれた。経歴はかなり破天荒というか山あり谷ありという感じ。大正初期の1910年代に20歳代で日本飛行学校を開設し校長に就任するが、自校の宣伝のためビラ撒き飛行した際に墜落、教官の飛行士と練習機とを一挙に失うという事態が起きる。それを回復するために寄付を募ったり、実技免除・講義録による校外生の通信教育で切り抜けた。

 しかし、今度は台風と津波に見舞われて東京湾岸の格納庫と共に飛行機を全部吹き飛ばされてしまうという不運が襲う。それでも屈せず第一次大戦の好況を背景として、アメリカの量産大衆車としてフォードに対抗するスター(Star)の輸入、ノックダウン組立販売を目的とする日米スター自動車を大阪に設立した。この会社は、自動車ブームの追い風で当時300万以上といわれる利益をあげたとみられる。相羽は、この資金を自動車学校の再建強力化、飛行科の併合など事業発展の基礎固めに費やし、併せて講義録の製作に始まった出版部門も強化発展させて月刊飛行機・自動車雑誌『スピード』を帝国飛行協会の機関誌として発刊させた。

 神田氏は、同誌は多面的な広がりを持つ、おもしろい雑誌だったと回想している。A4判100ページ足らずのフォーマット。グラビアページにグランプリレースの写真や最新ヨーロッパ者の計器板デザイン一覧が載ったりと趣味性を持たせる一方、営業運転手免許試験の問題集をしばしば載せるなど、実用性も持っていた。

 

 戦前の自動車雑誌 その弐

 1918年に創刊した『スピード』は、モータージャーナリストの神田重巳氏が三栄書房の社史である『三栄書房60年の轍』での文章や八重洲出版の『ドライバー』誌のコラムで述懐している。神田氏が同誌に詳しいのは、神田氏の父君が『スピード』の編集部に加わる中一夫氏と親交が深かったことにあるそうだ。発行人は相羽有(あいばたもつ)。発行所は日本飛行学校出版部だったりスピード社だったりとちょっとアバウト。相羽は日清戦争直後、20世紀の到来を直前に控える1890年代中葉に栃木県の素封家の長男として生まれた。経歴はかなり破天荒というか山あり谷ありという感じ。大正初期の1910年代に20歳代で日本飛行学校を開設し校長に就任するが、自校の宣伝のためビラ撒き飛行した際に墜落、教官の飛行士と練習機とを一挙に失うという事態が起きる。それを回復するために寄付を募ったり、実技免除・講義録による校外生の通信教育で切り抜けた。
 しかし、今度は台風と津波に見舞われて東京湾岸の格納庫と共に飛行機を全部吹き飛ばされてしまうという不運が襲う。それでも屈せず第一次大戦の好況を背景として、アメリカの量産大衆車としてフォードに対抗するスター(Star)の輸入、ノックダウン組立販売を目的とする日米スター自動車を大阪に設立した。この会社は、自動車ブームの追い風で当時300万以上といわれる利益をあげたとみられる。相羽は、この資金を自動車学校の再建強力化、飛行科の併合など事業発展の基礎固めに費やし、併せて講義録の製作に始まった出版部門も強化発展させて月刊飛行機・自動車雑誌『スピード』を帝国飛行協会の機関誌として発刊させた。
 神田氏は、同誌は多面的な広がりを持つ、おもしろい雑誌だったと回想している。A4判100ページ足らずのフォーマット。グラビアページにグランプリレースの写真や最新ヨーロッパ者の計器板デザイン一覧が載ったりと趣味性を持たせる一方、営業運転手免許試験の問題集をしばしば載せるなど、実用性も持っていた。
はてなブログに移動する方向です。http://yoiijima.hatenablog.com/

戦前の自動車雑誌

 現在執筆中の単行本のネタから少し……。齋藤俊彦氏の著作によると、日本で一番古い自動車雑誌は1912年に創刊された『飛行器ト自動車』らしい。発行元は東京自動社、後に茗渓会の発行となっている。私は、まだ実物を見たことがないが、東京大学明治新聞雑誌文庫に収められているようなので、資料を取り寄せてみるつもり。
 続いて創刊された『自動車』に関しては『カーグラフィック』誌の1968年10月号に紹介記事を見ることができる。『大正初年の雑誌「JIDOSHA,自動車」』というタイトルで、執筆者はイミターチォ・セシリ氏。記事によると同誌の判型は横23センチ、たて28センチというからA4判よりも少し大きいくらいだ。一冊の中程に水色の紙の広告ページがあって、それを境にして、邦文と英文の二部からできている。セシリ氏は記事中で、同誌の表紙の構成、扉や本文のカットの素晴らしさ、文字、文字の配置などの素晴らしさを挙げている。記事内容は、国内旅行記が中心を占め、東北、軽井沢、青梅、草津、九十九里浜などが取り上げられているそうだ。
 同誌は、当時の外国商社の社長達や国内で自家用車を持っていたいわゆる「特権階級」の人達が集まって作った「日本オートモビール・クラブ」の機関誌で、そのクラブの役員には、大倉喜七郎、藤原俊雄など。他に外国人も名前を連ねている。ちなみに大倉氏はケンブリッジ大学に留学していた時代、イギリス初のレーシングコースのブルックランズで開催された30マイル・モンタギュー・カップで2位に入賞した、当時のカーマニア。ただ、贅沢な作りだった同誌も1914年以降、全体に質が落ち、表紙と編集デザインは、はじめとは雲泥の差生まで低落していると記事中にある。
 続いて1913年に創刊した『モーター』は、山本豊村が創刊した自動車・オートバイ・航空機専門誌だ。ちなみに1913年当時は、自動車台数は特殊自動車を加えて761台という時代。同誌は、太平洋戦争が始まった翌年の1942年11月の雑誌統合まで発行を続けた。山本は、1883年頃、新潟県東頚城郡沖見村平方(現上越市牧区平方)で生まれた。早稲田大学英文科に入学し、1903年卒業後した後、1913年8月に『モーター』の創刊に至る。同誌は、自動車関係の各方面の専門化、団体首脳、経営者、学会、交通警察を始め諸省の官僚・軍人(軍用自動車関係)など多彩な執筆者が寄稿していた。これは国会図書館マイクロフィルムで読むことができる。(うちの近所の古書店にも在庫がありますが、1冊2万円です)。

プレイドライブ創刊編集長に聞く

 ひとつの仕事の山を超えて、懸案の単行本の原稿に落ち着いてとりかかれる状態になってきた。今日は単行本の取材をしてきた中でのこぼれ話、『プレイドライブ』の巻だ。同誌は、モータスポーツに参加する人を対象とした雑誌だ。どちらかというと土系(ラリー、ダートトライアル)のイメージが強いと思う。その前身となる『ドライブ旅行』の創刊は1968年までさかのぼる。

 今回、前々編集長や前編集長のツテで、幸いにも創刊編集長の宝崎氏にお会いする機会を得た。ちなみに宝崎氏の現在の愛車はマツダ・ロードスター。「せっかくだから、なるべくオープンにして乗ります」と言い、思い立ったらお気に入りの美術館に行くため“だけ”に岡山まで一気に走ってしまう、“ドライブ旅行”を現在でも実行しているような感じの人だ。

 いろいろな話を聞けたのだが、まず創刊時の誌名からもわかるように、最初は、モータースポーツ雑誌という意識は全くなかった。モータリゼーションが拡大する中、「何か面白いものをやりたいな」という思いで始めたそうだ。当初は海潮社という出版社から発行していたが、これも『ドライブ旅行』を発行するために作った会社。そして、クルマを使って美味しいものを食べに行ったり、温泉に行ったり、スキーにいったりというクルマによるレジャーを中心にした誌面作りが始まった。

 ラリーと出会ったのが69年の第1回DCCSウインターラリー。「取材に行っても、初めてだから右も左も分からない。ただ、とにかくコマ地図に興味を持った。そして、コマ地図を使ってドライブしたら面白いのではと閃いたんですよ」と宝崎氏。コマ地図は、普通の地図と違って、俯瞰的に見ることができない。その場に行ってみないと、どういう場所なのかがわからない。コマ地図の先には思いもかけない景色が広がっていたりする楽しみがある。そんなところに魅力を感じたそうだ。ただ「ラリー競技の面白さのほうは全然わからなかった」と言う……。

 さっそく宝崎氏は雑誌作りにそれを生かしていくことになる。最初は編集部でコマ地図を使ってドライブコースを作り誌面展開していたが、ノウハウなしにコマ地図を作るのは難しい。容易に想像できることだが、間違ったコマ図を誌面に掲載してしまった。これがラリー関係者の目に止まる。編集部に当時のトップナビゲーターから連絡があり、「素人がコマ地図を作るなんて危険極まりない。私に作らせなさい」というような成り行きとなった。それをきっかけに同誌はラリー色が段々強くなっていく。

 宝崎氏が編集長をしていた70年代半ばまでは、モータースポーツ誌として作っていたわけではなく、試行錯誤を続けていた状態だったそうだ。「コマ地図間違いの一件がなかったら、全く違った雑誌……純粋にコマ地図を使ったドライブを楽しむ方向に行っていたかもしれません」。そう語るのを聞きながら、もしかしたら、そっちの方向を望んでいたのかな? と私は思った。ちなみに取材時、宝崎氏は一冊の自動車雑誌を手にしていた。「最近はほとんど買わないんですが、表紙にあった“旅”という文字にひかれたんですよ」と、それくらい旅にこだわりを持っているようなのだ。

 もちろん、それはそれとして『プレイドライブ』がモータースポーツの下支えをしてきたのは事実。ただ、モータースポーツ専門誌としての『プレイドライブ』は、意図されたものではなくて、コマ地図に興味を持ったことと、その後のミスという偶然から派生したものだったというのも雑誌作りの面白みだと思う。

単行本の取材を続けています

 ということで(この間、5ヵ月ですが……)、株式会社グランプリ出版から新刊を出すためにいろいろな自動車雑誌の編集部を訪問している。単行本は、一番最近のものでも2009年なので、ずいぶんと間が空いてしまった。ちなみに、これが出れば6冊目の自著になる。最低でも一年一冊くらいは出したいと考えているが、こういう時代なので、なかなか思うようには行かない……。

 正式な本のタイトルはまだ決まっていないが、「自動車雑誌の歴史(仮題)」というような、ずいぶんと大上段に構えた企画書を持って歩いている。私も楽しいことやつらいことを経験しながら、多くの自動車雑誌に携わってきた。一読者だった雑誌、執筆させてもらったことがある雑誌、あまり縁のなかった雑誌などを含め約30誌をピックアップした。

 そこで各誌の元・現役を含めた編集長、関係者を中心にインタビューして、創刊当時の話や、良かった時代、悪かった時代?、現在の話を含めて一冊にまとめてみよう。しかも、日本のモータリゼーションとどのようにリンクしているのか考察してみようという、自分の力を勘違いしたような企て? に、“日暮れて道遠し”の悲哀を味わっているところ。

いずれにしても、今までの同社の単行本の切り口とは違ったものになるのではないかと勝手に思っている。詳しい内容は、このブログでもおいおい明かして(そんな大げさなものではありませんが……)いくつもりなのので、よろしくお願いします!