戦前のモータースポーツは、1922年の東京・洲崎で行われた「第1回日本自動車レース」が始まりとされている。1925年の「第6回日本自動車レース」では戦後、本田技研を設立する本田宗一郎が「カーチス号」にメカとして同乗し優勝している。
1936年には神奈川県に日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」が建設された。このサーキットは全長約1200mの変形オーバルコースで、二輪車、四輪車によるレースが盛んに行われるようになった。「第1回全日本自動車競走大会」では、日産自動車の有志が市販のダットサンをベースとしたレーシングカーを製作した。このときはオオタ自動車工業の「オオタ号」が優勝する。
その3カ月後の第2回大会で、日産は本格レーシングカー「ダットサンNL75」を2台、生産車ベースの「ダットサンNL76」を2台出場させて優勝を果たしている。ただし、このときには、オオタ自動車工業は参戦していなかった。
このレースには、本田宗一郎も「浜松号」で出場した記録が残っている。このように一定の盛り上がりを見せた戦前の自動車レースは、第二次世界大戦によって中断することになる。
戦後は、まず二輪車からレースが再開された。初の本格的な二輪車レースは、1949年に多摩川スピードウェイで開催された「全日本モーターサイクル選手権大会」だ。続いて1953年に東海道を中心に公道を利用した「名古屋TTレース」が開催される。
これは正式名称を「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」といい、名目上は二輪車によるパレード走行となっていたが、実質は速さを競うレース(タイムトライアル)だった。開催後に実態を知った警察に目をつけられてしまい、この一回だけで中止となる。
同年には、「富士登山レース」、その後は「浅間高原レース」、「浅間火山レース」などが行われた。これはらすべて2輪のレースだが、後に4輪のトップドライバーとなる選手の多くを育てることになった。
戦後の本格的モータースポーツは、ホンダがスーパーカブの生産のために作った三重県・鈴鹿製作所の近くに、テストコースを兼ねたレース用サーキット「鈴鹿サーキット」を建設したことにはじまる。戦前から自らも盛んにレース活動をしていた本田宗一郎ならではと言える。
鈴鹿サーキットは、日本最初の国際的サーキットでもあり、レイアウトは世界的にも優れたものとなった。ここで戦後初めての本格的な4輪自動車レースとなる「日本グランプリレース」が行われることになる。
鈴鹿サーキットの完成と日本グランプリレースが開催されたことによって、当時の自動車メーカーが本当にレースの持つ意味を理解したといっていいだろう。モータースポーツは、当時の最先端の自動車が競い合い、レーシングドライバーという若者の憧れとなる存在が活躍することで、1960年代のモータリゼーションの華やかな彩りとなる。