18歳になり、昭和でもっとも意地悪な職業とされた教官と1ヶ月ほどつきあって運転免許証を取った。高校を卒業した後の、昭和59年の5月のことだ。本来なら勉強に身を入れなければならない大学浪人の身で免許証を「取らせてくれた」のは父が一人で切り盛りする自動車板金塗装業で客のクルマの納車だけでも手伝わせようという思惑があったようだ。
その上、父は私にクルマまで用意してくれた。この辺はただで仕事を手伝わせようという前提があったとしても恵まれていた。車種はランサーセレステ1600GSR。おそらく「もう乗らないから……」とオーナーに捨てられたクルマだったのだろう。父はクルマに関してとくに説明はしなかった。
このクルマはA73と呼ばれたランサーGSRとメカニカルコンポーネンツを同一としていた。オーストラリアで行われていた国際ラリーであるサザンクロスラリーや過酷さで有名なアフリカのサファリラリーなどで活躍し、「ラリーの三菱」という言葉を定着させたクルマだ。ただA73ランサーのイメージはハードすぎた。当時の日本に溢れんばかりいた若者も、岩崎宏美の「ロマンス」やキャンディーズの「年下の男の子」を聞く程度に軟化した時代だったのだ。そこで「セレステ(ラテン語で青い空の意)」が必要とされたわけだ。
生産年の昭和50年というと排ガス規制で自動車メーカーが苦労していた時代だが、当時としては速いクルマといえた。私としては、正直にありがたいことだった。ドライビングの楽しさに気づいてしまうことで、結果的に悪い道に進むようになるのだが、それはそれとしても。
搭載されるエンジンは4G32型1.6L・SOHCで、110psを発生する。三菱自動車ではこれをサターンエンジンと呼んでいた。エンジンルームを覗くと楕円形のエアクリーナーの下にキャブレターがある。ダウンドラフトの2バレルキャブを2連装し、効率的な吸気を狙っていたのだ。
スタイルはロングノーズ&ファストバックだが、三菱自動車では「クリーンエアロ・スタイル」と名付けた。リアクォーターに設けられたサメのエラのようなルーバーは、エアインテークではなく、内側にガラスが貼られたスクープウインドウなのも凝った部分だ。
サスペンションはフロントはラリーでは理想的とも言えるマクファーソンストラットで、リアはリーフスプリングを使用したリジッドを採用していた。ただ、当時の私にはサスペンションを語るほどの知識は無い。
こう書いていくと、贅沢のように思われるかもしれないが、私の手元に来たセレステは「年下の男の子」の時代から9年の歳月が流れている。カーラジオから流れてくる音楽はすでにチェッカーズの「涙のリクエスト」だったり、松田聖子の「ピンクのモーツァルト」だ。塗装が一部ボロボロと剥げて、みすぼらしさが多々あったのは事実だ。ただ、自分で買ったクルマではないことも含め、それに文句をつける筋合いもなければ、金銭的にも仕立て直す余裕はなかった。
もっともドライバーズシートに座ってしまえば、みすぼらしさがあまり気にならないというの私にとっては救いだった。小径ではないがレザー巻風の3本スポークステアリングホイール、その向こう側にあるスピードメーターとタコメーターは、私には子どもの頃から憧れたポルシェやフェラーリのそれと変わらないように見えた。
私はこのクルマに1年弱ほど乗って、1年車検になると同時に降りることになる。製造から10年経ったらもうポンコツという時代だった。