自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(5)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第5回となります。

ラリーを中心としたモータースポーツ専門誌としては「プレイドライブ」が台頭していました。創刊時は以前紹介したように1968年に創刊した「ドライブ旅行」というドライブを主体とした一般自動車雑誌で、モータースポーツのイメージは薄いものでした。創刊編集長の宝崎秀敏さんはこう言います。

👇「ドライブ旅行(プレイドライブの前身)」創刊時の話はこちらから

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1968年創刊の「ドライブ旅行」は商標登録の関係で題字を「プレイドライブ」と変更する。シトロエン2CVの表紙を見てもわかるように、モータースポーツ専門誌を謳っていたわけではないが、中身はその色が強くなりつつあった。

「当時は、何か面白いことをやりたいという思いが先行していて、計算をした上での創刊ではありませんでした。高度成長期でもあり世の中が大きく変貌して、駆け足でいかないと追いつけない雰囲気もありました。雑誌を立ち上げると決めたのは、1967年の押し詰まった頃で、その翌年の5月に「ドライブ旅行」を発行するために会社を設立しました。それが海潮社です。友人、知人を口説いてとにかく内輪で作ろうということにしました」

見切り発車のようにも思えますが、宝崎さんには時代の流れとして、これからの旅は、鉄道や船や飛行機だけではなくて、クルマが主役になるという読みがあったのも事実。そういう面では「ドライブ旅行」というタイトルもピッタリでした。ただ、商標権の問題があり「プレイドライブ」としたのは以前に触れた通りです。

同誌の創刊時にはすでに「日本アルペンラリー」や日本を縦断するような「富士~霧島4000kmラリー」などが盛り上がってきた時代です。そして1969年に「第1回DCCSウインターラリー」の取材に行ったのが同誌の方向を決めるひとつのきっかけとなります。宝崎さんの話を続けます。

「そのラリーには、自動車メーカーのワークスチームが出てきていました。我々も自動車メーカーとのお付き合いがはじまっていて、広報部から面白いから取材してみたら? と誘われました。それでスタート地点の東京の神宮外苑絵画館に行ってみたら主催者からコマ地図を渡されて、これを使って取材してくださいと言われました。コマ地図を見るのも使うのもはじめてだったので、最初は無我夢中でよくわかりませんでしたが、地図を追って走っているうちにコマ地図の楽しみを発見しました。ラリーの面白さはよくわかりませんでしたが、コマ地図がひとつの地図表現として面白かったのです。これは使えるぞ、とひらめいた」

この宝崎さんのアイデアから、コマ地図を実際に使ったドライブ企画を誌上で展開することになり、これが後の「PDラリー」のはじまりとなります。

「第3回までは編集部で作ったのです。ラリー風ドライブとして、その方向で読者の支持を得られれば、本来のテーマであるドライブを軸にして軽井沢や京都などの観光地に行くような方向に行っていたと思います」

プレイドライブ」をラリーの方向に近づける契機となったコマ地図。ロードマップにはない意外性に楽しみを見出したのが「PDラリー」のそもそもの始まりだった。

ただ、その第3回目でコマ地図のY字路の進行方向を逆に表記するという作製ミスをしてしまい、それをきっかけに「プレイドライブ」がモータースポーツ雑誌の方向に向かっていくことになります。コマ地図の間違いをワークスチームPMC・S(プリンスモータリストクラブ・スポーツ)の尾針得助さんに指摘されたのです。編集部に「素人じゃ無理だし危険だ。俺が作ってやるよ」という主旨の連絡があったのです。尾針さんは当時からトップラリーストで、その指摘は的を射たものでした。

「コマ地図を間違ったことが、運命のY字路になった」と宝崎さんは言います。

その後、「プレイドライブ」の発行は海潮社から芸文社に移ります。これは1973年の第4次中東戦争に端を発したオイルショックが原因でした。石油関係の物資の価格が上がり、紙も逼迫して製作原価が跳ね上がったのです。

芸文社に移ってもモータースポーツ専門誌というわけではなく、何が読者にウケるか試行錯誤をしていた状態です。そうはいっても国内外のラリーの取材を始めるようになっていましたから確実にモータースポーツの方に近寄っていたのは事実です」と宝崎さん。

1970年代のラリーに関しては日本の自動車メーカーがサファリラリーなどの耐久性が問われるイベントを中心に、積極的に世界に出ていった時代です。80年代にはWRCで日本メーカーが活躍するようになりますが、その布石がここで打たれていたといえるでしょう。自動車メーカーにとってモータースポーツがより重要な時代が来ており、プレイドライブもその波に乗っていきました。

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