自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史(10)

10年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。今回はその10回目です。

1971年モーターマガジン社より創刊された「ホリデーオート」。当初は4輪の専門誌ではなく、乗り物で休日を楽しむという主旨で発行された。表紙も自動車雑誌を感じさせない。

1970年代は、自動車雑誌の創刊ラッシュの時代です。カローラ、サニーといった大衆車が台頭したこともあり、自動車雑誌の内容も憧れの部分に加え、パーソナルに使える実用品としの情報が必要になりました。ニーズとしては、クルマの信頼性の低さによるトラブルも現代より格段に多かったため、オーナー自身がある程度の整備をすることが求められました。そのためクルマに対する知識が求められていました。

さらに自動車雑誌にクルマの要素だけでなく、エンターテイメントの要素を加え、レジャーや誌面を飾るアイドルなど、男性読者を惹き付ける内容が求められました。前回紹介したCARトップもこの要素でどんどん部数を伸ばします。

当時編集部にいた城市邦夫氏によれば「あれよあれよという間に部数が伸びました。小さい出版社なのに、こんなに売れる雑誌が作れるのかという感覚でした。他の自動車専門誌が技術解説などマニア向けの硬い内容を柱にしていたところに、CARトップは、とにかく楽しい車の雑誌を副題として、わかりやすい自動車雑誌を作っていきました」と語っています。

私も小学校高学年くらいになると読んでいたので、(ちょっと特殊かもしれないですが)売れ筋の雑誌となっていたのは間違いないようです。ただし、仕事として書いたことはまだないです…。

創刊後しばらく苦戦が続いたホリデーオートだが、Oh!MY街道レーサーというヒット企画で一躍売れ線になった。

1971年に「ホリデーオート」が創刊されます。これは「CARトップ」と同じB5中綴じスタイルで登場しました。同誌の編集長を務めた田中克明氏はあけすけに?こう語ってくれました。

「うちがホリデーオートを創刊したのはCARトップが売れていたからと考えていいでしょう。創刊編集長は見山亮さんです。しばらくは試行錯誤の時期で、国産車だけでなく輸入車もよく取り上げましたしバイクの記事もありました」

そもそもホリデーオートは乗り物で休日を楽しもうという主旨の雑誌でした。当時の記事を見ると例えば編集部員がUFO(未確認飛行物体)を探しにいくなどという70年代っぽい企画?も行っています。いずれにしても同誌は自動車専門誌をフックとして、もっと一般誌的なイメージにしようという意識が強かったようです。

同誌の部数が伸びるのは、「Oh!My街道レーサー」という企画のヒットを待たなければなりませんでした。これは読者のカスタムカーを紹介する企画で、スタイルのベースとなったのは、当時の富士グランチャンピオンレース(通称:GC/グラチャン)のツーリングカーレース出場車でした。

1983年の「Oh!MY街道レーサー」。この号のように「チューニングカー」も取り上げていた。企画のルーツは75年のGCの駐車場に止まっていたレースファンのクルマだった。

この企画は1975年8月、9月号の巻頭カラーの「超驚異暴走風自動車列伝」という特集で登場します。当初は編集部がクルマを取材する形でしたが、後になると読者投稿でページ作りを行うようになります。投稿は殺到し、最盛期には掲載は150~200通に対して毎月3000通を超える投稿が来ていたそうです。それに伴って部数も伸びていきました。もちろん風俗やクルマの改造という面では褒められたものではないでしょうが、ボリュームゾーンが若者であり、それだけ活気に溢れていた時代と言えるでしょう。

1982年3月号のドレスアップ特集。デビュー間もないスカイラインRSやラリーで活躍したランタボ、ポルシェ風RX-7などをカスタマイズ。この辺は後の「Option」や「CARBOY」路線に続いていくように感じる。

ちなみにこの当時のことを「CARトップ」の城市氏はこう回想しています。

「70年代後半になると、後発の「ホリデーオート」の方がちょっと売れるようになってしまったのです。その頃に私が編集長になったのですが、絶対に「ホリデーオート」を追い抜こうという目標ができました。それで編集長になって半年くらいで部数はならんだと思います」

もうバチバチの時代でした。

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