自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

2015年5月9日の写真から。「スバルサンバー 人々の生活を支える軽自動車の半世紀」が「おおたタイムス」に紹介されました。

おおたタイムスに紹介された「スバル360開発物語(桂木洋二)」と拙著「スバルサンバー」

前回のブログでも紹介したように、2015年にスバルサンバーの本を書きました。その前に書いた「モータリゼーション自動車雑誌の研究(グランプリ出版)」が取材と執筆とを合わせると1年くらいかかってしまったので、もう少し短期で書けて確実に売れそうな本を考えていたのですが、三樹書房の編集者が「サンバーは根強い人気があるし、確実に売れるのではないか?」という提案をしたことから企画が始まった感じでした。

モータリゼーション自動車雑誌の研究のダイジェストはこちらから読めます。

yoiijima.hatenablog.com

 

私も1車種に絞って書けるのならば、そんなに大変ではないかな?と甘い見積もりで始めたのですが、軽く歴史を遡るだけでは一冊になりません。当時の資料や新車発表時の資料を集めに国会図書館、自動車図書館、トヨタ博物館の図書館に行ったり、スバルの許可を得た上で当時のカタログをすべて集めるだけでもかなりの手間です。

あまり苦労話をしても良くないとは思うのですが、ある程度本が形になってからも、掲載カタログの全てにキャプションを入れたので、それだけで編集部に2週間位は通い詰めた感じでした。おそらくその原稿量だけでも単行本1冊分くらいになっているのではないかと思います。

おかげで発売してからは好評で、アマゾンだけで言えば、単行本総合で100位台くらいに上がり、当然のようにクルマ・バイク部門ではしばらく1位を続け、「これでしばらく遊んで暮らせるのではないか?」と勘違いしたくらいでした。悲しい話、かつてはアマゾンなどでどかっと売れると、その後書店から次々と注文が入る感じだったのですが、期待したほど書店からの注文はなかったようです。いわゆる本離れはこの頃から進んでいました。

ただ、スバルの本拠地である群馬県太田市の書店ではかなり良い売れ行きを見せていたという話は聞いています。このように地元紙である「おおたタイムス」がしっかりと紹介してくれたのは大変ありがたいことでした。

ちなみに一緒に紹介されている「スバル360開発物語」は私がかつて勤めていた出版社の大先輩にあたる桂木洋二氏の著書で、NHKプロジェクトXスバル360の回の元ネタになった本です。

私の「スバルサンバー」の方も発売して9年経ってしまいました。ただ、サンバーに関しては昨年BSJapanextの「国分太一のザ・クラフツメン」で解説の依頼が来たり、今年になってからも同番組からスバル360の方の解説の依頼が来たりと、不思議な縁を感じたりしています。2台とも根強い人気がありますね。

「スバルサンバー 人々の生活を支える軽自動車の半世紀」はアマゾンなどで価格が高騰していますが、もしかすると書店から返本されていたり、私がイベント用にサインしたものが三樹書房にあるかもしれないので、気になる方は聞いてみていただければと思います。

 

2014年5月10日の写真から。トヨタ博物館所蔵の日野コンテッサ900。

コンテッサ900は軽快なエンジン音を響かせながらトヨタ博物館内をパレード走行していました。

日野自動車コンテッサ900です。おそらく拙著「スバルサンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀(三樹書房)」の取材のためにトヨタ博物館に行ったときのものです。後ろに少し見えているのはコンテッサ1300クーペのレース仕様だと思います。

おぼろげな記憶なのですが、我が家のクルマとして最初に記憶にあるのがコンテッサ900です。おそらく家の中のどこかに写真があるはずなのですが、ぱっと出てくるような状態でもありません。ただ亡父が「あのクルマは良かった。でも本当は1300が欲しかったけどお金がなくて買えなかった…(泣)」とは良く言っていました。もしかしたら1969年日本グランプリを観戦に行ったときもこのクルマだったかもという気もします。

自動車ライター的に解説しておくと、日野自動車工業(当時、日野ヂーゼル工業)が、1953(昭和28)年にルノー公団と技術提携しルノー4CVを国産化します。その技術を活かして1961(昭和36)年に誕生したのがコンテッサ900ということになります。ちなみにコンテッサContessa)はイタリア語で「伯爵夫人」という意味です。かなり高貴なイメージで売ってきました。

リヤに縦置きされる0.9L直4OHVエンジンは35ps/5000rpmと非力でしたが、車重は720kgですからそこそこ良く走ったと思います。ちなみにクラウンが48psで1210kgですからパワーウエイトレシオは圧倒的にコンテッサの勝ちです。

サスペンションはフロントがウイッシュボーン、リアがスイングアクスルという贅沢な4輪独立式です。当時はクラウンでさえリアはリジッドでしたから、やっぱりここもフランス流の進んだ部分。ただ、残念なことに販売では成功とはいかず1967(昭和42)年に日野は乗用車部門は撤退。トヨタと提携したのですが、その条件が小型車部門からの撤退ということもあったそうです。

コンテッサとは関係ないですが、このときにサンバーの資料をお借りできたおかげで前述の「スバルサンバー…」もなんとか書き上げることができました。トヨタ博物館内には図書館もありますし、クルマ好きは一度足を運ぶことををおすすめします。

👇️中古価格が高騰しているので、気になる方は三樹書房に在庫確認してみてください。残っていれば定価で購入できます。

三樹書房

 

今さらながらFimora(フィモーラ)でショート動画を作る方法を知りました。


www.youtube.com

↑フィモーラで確実にショート動画を作る方法がわかりました。動画は昨年の10月9日の日光サーキット。ウエットとしてはまあまあ速いほうでした。

 

一応Youtubeチャンネルを持っています。簡単な編集をするのにフィモーラを使っているのですが、そこでショート動画を作るときに困っていたことがありました。単に私の知識がなかっただけなのですが…。

どういう問題だったかというと、通常の縦横比をそのままでショートにしたいとき、まずフィモーラを起動してアスペクト比(9:16)を選んで、動画を1分以内にカットしてエクスポートすると、ショートのサイズではなくて通常(ワイドスクリーン)サイズでエクスポートされて、意味がなくなってしまうということが続いていました。

アスペクト比を9:16(縦画面)にしても、最終的にワイドスクリーンでエクスポートされていました。

ただ、偶然なのかもしれませんが、その1分以内にした動画を使ってもう一回最初から9:16になるアスペクト比を選択してエクスポートすればショート用になることもあり、そういう仕様なのかバグなのか?と半分諦めていました。ただ、ショートができたりできなかったりというのはあまり気持ちのいいものではありません。

で、どこが私の間違いかというと、編集をはじめる際に「メディアに一致」を選択していたからでした。「プロジェクト設定を保持する」を選択したら、ちゃんとショートサイズでエクスポートされました。当たり前といえば当たり前なのですが、まあ動画は素人仕事なのでしかないかも。

この時、緑色の「メディアに一致」ではなく右側の「プロジェクトを保持する」を選ばないとワイドスクリーンに戻ってしまうようです。

ということで、これからショートもストレスなく作れそうです。もしかして同じようなことで悩んでいるかたがいるかもしれないと思い、記事にしてみました。

Youtubeの登録者数がなかなか500人に行きません。現在437人です。登録していただけると嬉しいです。

www.youtube.com

 

 

2015年8月11日の写真から。E30 BMW M3の2回めの車検時

M3はやっぱりかっこいいです。ホイールはこの頃はスピードスターのリバースホイールでした。

わりとちゃんとM3が映っている写真がありました。これは2013年にM3を購入して普通に2年乗り、2回めのユーザー車検を通したあとです。なんか当日は原稿の締切に押されている中でバタバタとユーザー車検を通し、近所のコンビニで水分補給ついでに撮った記憶があります。まだサーキット走行はしていない時代です。

M3はかっこはいいのですが、私のはエアコンレスなので乗る時期を選ぶのが悩みのたねでした。あと、アイドリング状態だと水温が上がり気味になってしまうのも困りました。冷却ファンのカップリングがだめになっていたので、後に電動ファンを付けたのですが、結局それは解決しませんでした。少しでも走っていれば全然問題なかったので、そういうクルマだったのかもしれません。

さらに悪い?ことには8月に車検取得してしまったために、各部のメンテナンスを真夏に友人のガレージ内でしなければならなかったことです。この頃は夏になると体重が落ちるというような状況でした。

多摩の車検場に行っていたのですが、車検の前に予備検を受ける整備工場が、初回の車検で行ったことを覚えていてくれて、「今年も来たね」的な感じでチェックしてくれるのが心強かったです。そこでは光軸やサイドスリップを見てくれるだけではなく、ユーザー車検をする人のために一通り提出書類を揃えており、書き方指南までしてくれるという懇切丁寧さがありがたかったです。

「こんなので飛ばしたら気持ちいいだろうなあ」という整備士さん。

「でももう古いクルマですから」と私

「そんなのは関係ないだろう」

みたいな感じでと話が弾んだのもM3のおかげだったと思っています。

 

 

 

自動車本や雑誌づくりの際の表記の統一について。

編集委員を務めた「自動車用語辞典(グランプリ出版)」の凡例です。ここでは適宜という判断基準です。出版社の意向には逆らえません。

いつも昔話ばかりなので、たまには本・雑誌づくりの現場の話を。主に表記のことについてです。このところ気になるのは、電気自動車のことをEV車、ハイブリッド車のことHV車と表記していることです。このVはvehicle(車両)という意味なので、この場合、日本語にすると電気自動車車、ハイブリッド車車となってしまいます。「頭痛が痛い」パターンです。正しい表記はEV、HVとなります。プラグインハイブリッド車もPHV車ではなくPHVとなりますので、こういう表記の媒体には内容も含めて?注意が必要です。

同じような例で、「排気ガス」という表記もあります。これは間違いとはいいませんが、「気」と「ガス(気体)」が重なるので、排ガスガスもしくは排気気になってしまいます。あとアメリカ英語で「gas」だと「ガソリン」の意味もあるのでここでも違和感があります。「排ガス」もしくは「排出ガス」が個人的にすっきりします。

次も多い例です。4サイクルエンジン(内燃機関)では吸気→圧縮→爆発→排気の行程があると説明される場合がありますが、爆発ではなく燃焼がより正確です。内燃機関をICE(Internal Combustion Engine)という言い方もされることが多くなりました。Combustionは燃焼という意味です。爆発ならばExplosionになります。

駆動系では、マニュアルトランスミッションのことを「ミッション」とさくっと言ってしまう例も見られます。ミッションと言ってしまえばオートマチックトランスミッションもミッションはミッションです。ただ、さすがにいちいちこう書くのも長ったらしいのでMT、ATとする方がいいかと思います。個人的にはそれにギヤ段数を加えて5速MT、6速MTのように書くことが多いです。

ギヤつながりですが、デファレンシャルギヤは「デフ」に略していいと思うのですが、これは日本語にすると差動装置になります。コーナリングのときに駆動する内輪と外輪に「差」を付けるのでこう呼ばれるのですが、表記が作動装置になっているのもたまに見かけます。同様にLSD(リミテッドスリップデファレンシャルギヤ)の解説で差動制限装置を作動制限装置としているのもしばしば見かけます。これは単なる誤植ですが、おそらく手書き原稿時代には少なかったと思います。パソコンの文字変換によって一発で「作動」と出るために多くなった間違いのような感じもします。

あとはギヤとギア、ショックアブソーバーとショックアブソーバ、シャシーとシャーシ、ラジエターとラジエータみたいなのは、その媒体ごとの判断になります。JIS規格の表記に合わせるとか、グーグル検索してヒット数が多い方を一般的と判断してそちらにするとか、基本的に編集長判断になります。

表記の統一は複数の媒体に書くフリーのライターが行うのは至難のワザなので、基本編集部におまかせすることになります。もし不統一があったとしてもライターの責任とは言い切れないので責めないでください…。

 

 

 

2013年7月某日の写真から。友人からBMW M3をたまたま?購入する。

友人はステンレス加工会社を経営しています。M3を社屋内に保管していました。リアウイングは外して別保管。

エンジンはS14型2.3L直4DOHC16バルブで国内仕様では195psを発生しています。あくまでもスペック上ですが…。

放置状態だったE30 BMW M3を友人から購入したのが11年前の7月のこと。この頃、金銭的事情その他で、免許証を取ってはじめてクルマのない生活をしていたのですが、拙著「モータリゼーション自動車雑誌の研究(グランプリ出版)」も脱稿し、何か面白いクルマが欲しいなと思っていたころです。

かといって、正直言って新車にはあまり興味がわかないのと、現実問題として金銭的に厳しい。スポーティなクルマが欲しいとなると必然的に対象は90年代前後のクルマになってしまいます。周囲には「SW20のMR2あたりかなあ」なんて言っていて、ほとんど自分でもその気になっていました。

たまたまその年の7月の休日、昔の同僚で一緒にダートラをやっていたY君の経営する工場に遊びに行くと、ホコリまみれになったM3が置いてあります。グループA規定のWRC、JTC(全日本ツーリングカー選手権)、N1耐久と多くのモータースポーツシーンで活躍した名車です。

Y君は、「クルマを探している」と言う私に、「このクルマ、乗りませんか」と誘惑してきました。なんでも、もう一台チューニングしたM3を入手予定だとかで、「いらないんだったら部品取りにしちゃおうかな」などと言っており、私としては、「まだ動く個体を減らしてしまうのはもったいない」という気持ちが湧いてきました。

私は最初、「高いでしょ?」、「M3は維持が大変でしょ?」などとおよび腰でしたが、エンジンまでかけて、デモンストレーションをしてくれると、心が動きます。 ホコリをかぶっているとは言え、ガレージ内保管で、特に不具合もない状態(だとこのときは聞いていました。あとでちょっと大変でしたが)ということで、ひととおりメンテナンスして、ユーザー車検を通してしまえばいいのかなあ、となんとなく購入を決意してしまったのです。代金は11月に出るはずの単行本の印税で払うことにしました。

今にして思えば大胆な判断だったかもしれません。まあ、毎日が土日、休日のような時期だったからできた決断だったとも言えます。

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2018年11月21日の写真から。篠塚建次郎選手に聞いたあんなことこんなこと。

アフリカエコレースの出発直前でしたが、たまたま都内に来るということで時間を取っていただきました。

もう5年以上前です。この日はホリデーオート誌の編集部員として篠塚建次郎さんにインタビューをしました。ライターは別の方にお願いしています。90年代、パリ~ダカールラリーの参戦報告会でインタビューさせて頂いて以来でしたので、30年ぶりに近い感じでした。気さくな上に話が上手なのでインタビュアーとしては、大変やりやすい方でもありました。

私はもともとラリーファンでもあったので、「篠塚建次郎」という名前は高校生くらいの頃には知っていました。ただ、失礼ながら70年代にサザンクロスやサファリでランサーに乗って活躍した過去のドライバーという認識でした。それが、1980年代に入るとパリ~ダカールで復帰して活躍を続けます。「まだ走るんだ」というのが当時の驚きでした。

ちなみにパリ~ダカールというのはFIA国際自動車連盟)の競技カテゴリーとしては「ラリーレイド」になっているので、せっかくなら本来の「ラリー」の走りも見たいという気持ちもあったのですが、1991年のコートジボワールラリーでギャランVR-4に乗り、日本人として初めてWRC世界ラリー選手権)優勝を果たし、パリ~ダカでも97年に日本人初の総合優勝を果たすなど、さすがというか、いつも日の当たる場所にいた人というイメージです。

「三菱の社員だからラリーに出るには企画書を作るわけ。で、ドライバーのところに自分で篠塚建次郎って書いちゃうんだよね。通らなかったらどうしようとか思いながら」と当時のことを笑いながら話していたのが印象的でした。

こんなことを踏まえて「篠塚さんって、何か持って生まれたものがあるというか、いつも日の当たる場所にいてうらやましいです感じですよね」と不躾な質問?をしたのですが、そのときに微妙な表情をして「そんなことないよ。そういうところしか表に出ないからじゃない。実情はいろいろ大変で…」というような主旨のことを話してくれました。

「三菱ワークスの頃は周りに人が集まっていて華やかに見えたかもしれないけど、三菱辞めてからあまり誰も来なくなったし、(メディアの)扱いも変わったよね」というようなことも言っていました。確かに、人を上げ下げするメディア側も反省しなければならないし、さらには御本人にしかわからない肌感覚のようなものもあったのかもしれません。

ところでこの日、興味深い話をされていました。雑誌のインタビューにも書いていないのですが「三菱を辞める必要はなかったのかもしれないんだよなあ」と言うのです。もちろん、当時の報道では「マネージャー転身を勧める三菱と、ドライバーにこだわる篠塚氏との話し合いの上、円満退社」となっていますので、公式にはそうなのでしょうが、それだけでは語れない部分はあったようです。この辺は尾ひれがつくと困るので、ここまでにしておきます。

 

2017年11月25日の写真から。「2017 トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑」でのベイカーエレクトリック。

左はベンツのパテントモトールヴァーゲン(の確かレプリカ)で、右がベイカーエレクトリック。

2024年なんていうのは、子供の頃の感覚で言えばSFの未来です。1970年代あたりの雰囲気から見れば、石油なんてとうの昔に枯渇してしまい、電気自動車が当たり前のはずでした。当時の子供向けの本もけっこう未来のクルマとして電気自動車が掲載されていた記憶があります。

で、写真は昨日に引き続いてクラシックカー・フェスティバルから。トヨタ博物館所蔵のベンツ・パテントモトールヴァーゲン(再現車)とベイカーエレクトリックです。1885年の秋にベンツはガソリンエンジンで走る3輪車の開発に成功しました。ただ、まだ自動車の動力として蒸気機関がいいのか、ガソリンエンジンがいいのか、電気モーターがいいのか?決着がついていない状況が続きます。

ヨーロッパでの自動車は、貴族の馬車の延長という感じで富裕層の乗り物という面がありました。一方、アメリカでは産業としての自動車が注目されたようです。まあアメリカンドリーム的な何かでしょう。

動力としてはエンジンかモーターかですが、ガソリンエンジンを搭載する自動車の製造に関しては、1895年にジョージ・B・セルデンという人が特許を取っていたために、特許料を支払わなければならないという制約がありました。

そんな背景の中、1899年にアメリカで生産が始まった電気自動車がベーカーエレクトリックです。面倒な上に危険が伴うクランクでのエンジン始動がいらず、ギヤによる変速も必要なく、しかも排ガスも出さずに静かということでかなり優秀な自動車とされていたそうです。

とくに上記の理由から女性に人気があったとも聞いたことがあります。ただ、速く走らせようとすると電力の消耗が多く、航続距離は厳しいという問題点は現代と同じでした。

一方、前記の特許の問題がある中でもヘンリー・フォードガソリンエンジンの自動車を作り始めます。そしてフォードT型(1908)年に完成すると好評を得ると同時に、前記の特許の問題も1911年にフォードとセルデンの裁判で特許を無効とし、決着を付けました。

考えてみると、セルデンの特許とは違いますが、環境問題という制約の中でエンジンの製作が制限されて電機自動車が作られ、現代とはレベルも技術も違うにしろバッテリー容量の問題があって、となんとなく今の状況に似ているような気がします。

こんな状況ではタイヤのない自動車(?)が空中を飛び交うようなSFの世界はまだまだ先のようです。

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2017年11月25日の写真から。「2017 トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑」でのサニー1000。

絵画館前を出発するサニー1000。欧州車的なデザインもかっこいいです。

神宮外苑の絵画館で行われたクラシックカー・フェスティバルに行ったときの写真です。トヨタ博物館所蔵のクラシックカーの展示や、一般参加のクラシックカー(と呼ぶには早いクルマもいましたが)100台ほどが都内をパレード走行しました。この時は、カーグラフィックの副編集長をされた高島鎮雄さんも出席されていて言葉を交わした記憶があります。

写真は日産サニー1000です。サニーというのは個人的に思い入れの深い一台です。というのも、鈑金塗装業を営んでいた父が日産サニー東京販売の仕事を多く請けていたこともあり、だいたいサニーに乗っていた、という記憶があるからです。

とはいってもさすがに初代の1000ではなく、1400GXとかGL、あるいはバンが父のマイカーだったことが多かったようです。ちなみにその次がハコスカGTかな?どちらかというと好きで乗っているのがハコスカ、サニーは仕事の関係で仕方なく…という雰囲気もありました。

普段、取り立ててサニーのことをよくも悪くも言わない父でしたが、あるとき駐車してあるサニー1000を見て「このクルマはよく走るんだよな。今のサニーやカローラよりも全然良い」と言ったことを覚えています。私は小学生高学年くらいだったと思いますが、コラムシフトのサニー1000はさすがにただの古いクルマにしか見えず、「そんなもんなんだ」くらいにしか思いませんでした。

ただ、このあとに1100ccのカローラが「プラス100ccの余裕」で登場し日産がトヨタに差をつけられていくということを知るにつれて、いいクルマだったのにイマイチ評価評価されなかったということで、気になる一台になります。この後の1200GXの方がモータースポーツを含めて活躍したので、より影が薄く見えたこともあるでしょう。

サニー1000は質実剛健というか、走ることだけに特化したクルマで、小排気量エンジンとはいえ600kg台の車重ですから、軽快に走ったことは想像できます。今、こんな割り切ったクルマがあれば…とも思いますが、安楽なクルマに慣れきったことを考えると無理ですね。

👇️私の書いた本です。ご一読いただければ嬉しいです。今在庫があって定価で買えるようですよね

 

2018年11月23日の写真から。ユーロチャレンジカップにBMW M3で参戦。

ひょんなきっかけで友人のガレージに眠っていたBMW M3を入手しました。トラブルも少なくとてもいい車だったと思います。

まっくろけでよくわかりませんが、筑波サーキットでユーロチャレンジカップに出場したときのBMW M3です。それまではダートトライアルをほそぼそとしていたのですが、M3を入手してサーキット走行に目覚め、初出場したレースがこれでした。

クルマのことは改めて詳しく解説する機会を作りたいと思っているのですが、長年の友人が持っていたもので、その友人がもう一台M3を買うので、私に購入を勧めたのが入手のきっかけでした。ちょっと調子が悪かったのですが、インジェクターの洗浄をした後はびっくりするくらい調子が良くなり、筑波サーキットのライセンスをとってスポーツ走行をしていました。

その後、お世話になっているショップでユーロチャレンジカップという欧州車のレースがあることを聞き、出場に踏み切った感じです。年齢を考えると遅すぎたレースデビューという感はあったのですが、まあ走れるうちは走っておこうという気持ちでした。

参加したのは2000cc~2700cc以下のクラスになり、BMW M3やベンツ190E2.3-16という見た目に派手なクルマになります。まあ、往時のグループAレースを彷彿とさせる感じ。いかつい?クルマがそろった割にはドライバー-が皆フレンドリーなのが救いでした。

ただ参加台数が少なく(多分5台くらい)、速いのは私と同じM3でもスポーツエボリューションの2500ccエンジン搭載のバージョン。私のは2300ccとかなり不利。もちろん技量的にもその2台のドライバーにまったく敵わないという状態でした

予選は1分12秒台のタイムで3位。1位、2位は楽に1分10秒を切ってくるタイムだったと思います。決勝レースでは、スタートと同時に2台のM3に離され、後ろからも結果的に追いついてくるクルマがなかったために、レースというよりは走行会という体で3位になりました。ただ初レースで初表彰台というのは気持ち的には悪くなく、以後レースにはまるきっかけとなったのは事実です。

↓私が編集、執筆した本です。どうぞよろしくお願い致します。