10年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。今回はその4回目です。
1945年の第二次世界大戦から2年、1947年に「モーターファン」が復刊しました。編集部は東京・八丁堀でスタート。戦時中な軍部の意向に沿った内容にされてしまったが、ようやく本来の姿に戻った形です。復刊号の表紙は女優の高峰秀子と富士工業(現・スバル)のラビットスクーター。この時代のモータリゼーションの主役は2輪車や3輪トラックだったという時代も反映しています。
この時代のモーターファンはいわゆる業界誌で、書店にも並んではいましたが、ごくわずか。収益は町の自動車修理工業や部品販売店の広告で、読者は当時の「日本語型自動車工業会」などの業界団体、オートバイ販売業者、自動車販売整備業者でした。
ただ、号を重ねるに連れて記事内容も業界関係者向けから、だんだんと専門家、学識研究者を擁して、メカニズム解説や新車テスト、インプレッションを中心にした一般読者に向けた雑誌になっていきます。1952年には発行部数も1万部を超え人気雑誌に成長していきました。後々まで同誌の企画の柱となるロードテストも第1回が1953年7月号からはじまっています。公道で動力性能や登坂性能を試した後、メーカ側との座談会を行うというスタイルでした。
「モーターファン」以外の自動車雑誌も生まれてきました。1951年に「自動車の日本(自動車の日本社)」、1952年に「モーターライン(新生日本社)」、「ポピュラー オートモビル(イヴニングスター社)」などが創刊されています。「ポピュラーオートモビル」に関しては、このブログ記事の元になっている「モータリゼーションと自動車雑誌の研究(飯嶋洋治/グランプリ出版)」に寄稿頂いた高島鎮雄さんのまえがきで触れられています。引用します。
「…このイブニングスター社から「ポピュラー・オートモビル」という自動車雑誌が出た。垢抜けのした雑誌で、松林清風、内山吉春/勇兄弟、五十嵐平達といった自動車趣味の大先輩が執筆陣に名を連ね、欧米の鍼灸のクルマを主体としたエンスージャスト向けのものであった。これが私の自動車趣味の最初の教科書であった…」
ということで、のちに「カーグラフィック」の創刊メンバーとなる高島氏の原点とも言える内容だったことが伺えます。
主に外国車を中心に憧れの趣味と捉える読者も生まれており、その需要に応える形で生まれたのが上の写真の「スピードライフ(誠文堂新光社)」です。これは1923年に同社から創刊した「科学画報」から分離したものでした。外国車のイラストや写真をふんだんに使った自動車雑誌で、クルマの基本的な構造やドライビングテクニックの解説もあり、現代の自動車雑誌とかなり近い内容のものとなっています。
ただ、同誌も広告収入で苦戦したと想像され、長続きしませんでした。1956年に「科学画報」に吸収される形で休刊となります。まだ、自動車業界も発達途中で、時代が早すぎたと言えるでしょう。
ちなみに私は取材の段階で誠文堂新光社に「スピードライフ」について確認しましたが、同社の体制もすでに変わってしまい、当時の資料やそれについて分かる人はいないという回答を得ています。
(参考文献:三栄書房 60年の轍)