10年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。今回はその9回目です。
1960年代終盤から70年代にかけては、日本の自動車メーカーが世界に追いつき始めた時代です。社会的にも、現在は苦しくても将来は明るいという希望がある時代で、自動車産業も活況を呈していました。自動車雑誌に限らず、男性誌ではクルマが大きな企画の柱になっており、高度成長期にカラーテレビ、クーラーと並ぶ三種の神器(3C)と呼ばれるのもこの頃です。
自動車雑誌にも新しい動きが出てきました。まだ自動車雑誌には専門的なイメージがあり、読者も限られていたところに、そのハードルを下げるような形で1968年に「CARトップ」が発売されます。B5中綴じの週刊誌スタイルで、エンターテイメント性を前面に出しました。取材時には、同誌の編集局長と務めた城市邦夫氏はこう語っていました。
「原点は、面白い自動車雑誌をやってみたいということです。創刊編集長は富田一夫さん。大阪に自交社という出版社があって、そこは業界紙を作っていましたが、当時、東京に進出したいということもありCARトップ誌をはじめたと聞いています」。
創刊号の特集を見ると、「〈現代の決戦〉スパイ大作戦 トヨタ対日産」や、「カタログデータに騙されるな!」といった扇情的とも取れる記事がある一方で、「欧米の代表的スポーティカー20モデル」、「すぐ乗れる10万円の中古車総ガイド」など、クルマへのあこがれと所有欲に応えるような記事が並んでいます。同誌が本格的に部数を伸ばしていくのは1970年代に入ってからのことになりますが、エポックメイキングだったのは間違いありません。
1968年には、もう一誌、休刊をはさみつつも2023年現在まで続いている雑誌が創刊されました(現在書店売はしていない)。それは「ドライブ旅行」で「プレイドライブ」の前身となります。創刊編集長は宝崎秀敏氏です。
「創刊時は時代の流れもあり、これからの旅行は、鉄道や船や飛行機のような大量輸送手段だけではなくて、絶対にクルマが主役になるという読みがありました。それで誌名もドライブ旅行としてました。ドライブの先には温泉があり、スキー場があり、美味しいものがある。そこへクルマで行くことに時代の価値があったのです」
と取材時に宝崎氏は語っています。
だが、創刊まもなくして「ドライブ旅行」の誌名が使えないことがわかります。この誌名は月刊誌を出版している某出版社が商標を持っていることがわかったのです。
「ドライブ旅行の商標を200万円くらいで売っても良いという話だったと思いますが、スタートしたばかりの零細出版社(当時・海潮社)にそんなゆとりはありません。それらば変えてしまおうとなり、1969年10月号からプレイドライブとしました」という経緯があったそうです。
ちなみに「プレイドライブ」というのは和製英語。後に大橋巨泉が司会をする「こんなモノいらない!?」というテレビ番組で間違った英語を使った雑誌ということで取り上げられたりもしたそうです。逆に言えば当時、テレビ番組で取り上げるほど誌名が浸透しはじめていたと言えるでしょう。
創刊号の特集は、「信州しなの秋をゆく」。巻頭はカラーページで「梓川から明神岳」、「北アルプスの峰々を後にして」と題したビジュアル中心のページ。その後のグラビアでも信州の観光名所を紹介するなど、ドライブガイド的な内容となっています。
ここまでで、第一期の主要な自動車雑誌が出揃ったと言っていいでしょう。アカデミックなイメージが強い「モーターファン」、堅実な路線でスタートしながらも柔軟な編集方針を取ることになる「モーターマガジン」、バイヤーズガイドに徹した「月刊自家用車」、独自のロードテストやジャーナリスティックな視点を取り入れた「カーグラフィック」、オートバイから4輪の時代を見据えた「ドライバー」、B5中綴じで一般誌に近い形をとった「CARトップ」、ドライブガイド的な内容の「ドライブ旅行」と、それぞれの特徴を生かした総合誌の時代とも言えます。1970年代を目前に控え、モータリゼーションは一層活発になっていきます。
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