10年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。今回はその12回目です。
1977年10月末には、「ベストカーガイド(現・ベストカー)」が創刊されます。発行元は、講談社のクループ会社である三推社。創刊の中心となる正岡貞雄氏は、「週刊現代」編集部、「月刊現代」編集長などを務めた後、講談社の方針により三推社をたちあげました。「ベストカーガイド」の創刊について正岡氏はこう語っています。
「僕のイメージは、クルマの週刊現代を作ればいいのではないかというものでした。自動車雑誌をやろうと思った動機としては、ひとつは日本がオイルショックを経験したことがあります。その影響で、東洋工業の企業城下町である広島で閑古鳥が鳴くような状況になるなど、自動車メーカーと社会の関係がクローズアップされていました。もうひとつは、作家の五木寛之さんと非常に親しくしていたことです。彼がクルマ好きで、クルマの話をしていると非常に話が弾むのです」
小説家として著名な五木寛之氏は、大のクルマ好きでもあります。そうした関係性の中で正岡氏は「むくむくと自動車雑誌を作ろうという気持ちが起きてきた」と言います。以降、正岡氏は「ベストカーガイド」を発行する三推社の運営に当たり、初代編集長は高橋克章氏となります。
高橋氏は、3人のスタッフを連れてきますが、その中に杉江博愛氏がいました。これが後の自動車評論家「徳大寺有恒」ということになります。正岡氏は話を続けます。
「間違いだらけのクルマ選びは大ベストセラーとなりましたが、はじめは杉江君が徳大寺有恒だとは知りません。当時、徳大寺有恒という名前が独り歩きしていて、徳大寺は何者だ!と騒ぎになって知ることになりました。僕は彼に名乗りをあげた方がいいと言って記者会見を開かせました。そして本誌の専属評論家としてバックアップしたのです」
編集スタッフが時代のオピニオンリーダーとなったことも、同誌の追い風になった。「ベストカーガイド」は多彩な人脈と企画力を駆使し、部数、内容において日本の代表的な自動車雑誌としての地位を築いていきます。
1979年には「スクランブル・カー・マガジン(後・カー・マガジン)」が創刊されました。発売元は後にネコ・パブリッシングとなる企画室ネコ。趣味性の高い外国車を中心とした内容ながら、マニアだけではなく一般にも親しみやすいものとしたのが特徴となります。
スーパーカーブームの後ということもあり、フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェなどわかりやすい外国車、そして国産車でもちょっとマニアックな車種を取り上げてコアな読者を得るようになります。初代発取材当時の編集長の沢村信氏はこう語ってくれました。
「創刊当時から外国車も取り上げていましたが、国産の新車も記事にしていました。その後、安藤俊晶編集長になって、カーグラフィック的にビンテージなクルマが増えてきた感じです。安藤さんの人脈もあったでしょう。カー・マガジンというとクオリティ誌の部類に入っていると思いますが、そのイメージができたと思います」
その後も編集長によって色は代わるが、基本的な路線は大きく変わっていないように見えます。創刊号を見てみると、欧州車中心のイメージの同誌としては意外なホンダ車特集。これは、創刊号の前にゼロ号としてミニを特集したことが伏線となっているようです。「CIVIC RSは和製ミニ・クーパーだった」というタイトルからもわかるように、単にシビックを扱っただけではありません。
発行人の笹本氏は自身のブログで「今みれば、全体としては実に稚拙なデキで、同人誌の域をそれほど上回っているとは思えず、よく続けられたなあ、と思う」と記しているが、他誌にはない個性が感じられるのも事実でした。
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