10年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、今になって思うことを書いてみたいと思います。今回はその18回目です。
1990年代末に至ると、内燃機関を使用した自動車は技術的にはほぼくるところまできたというふうな言われ方をされることが多くなりました。すでに燃料電池やEV(電気自動車)が話題となる時代にもなります。
4年毎のモデルチェンジのたびに目を引く新機構を採用してきた自動車メーカーも、前モデルとの差異をつけることが難しくなってきます。新型になる度に買い替えていた層が、不況ということもあり長く乗るようにもなってきました。そこには生産車の完成度が高くなり、文字通りメンテナンスフリーになってきたという面もあります。
このような景気の下降や、新車への興味の希薄化、そして読者の嗜好の拡散といった流れの中で、自動車雑誌の歴史の一幕が下ります。1996年7月号で「モーターファン」が休刊に至りました。
●モータファン復刊時の話はこちら。
あくまでもアカデミックな路線の同誌は、バブル崩壊の影響と、雑誌に知識よりもエンターテイメントを求める読者が大勢を占めるなかで、部数の凋落が止まらなかったと想像できます。
2000年代は、さらに日本経済は右肩下がりの時代となります。クルマに過剰な動力性能を求めるのではなく、トヨタ・プリウスやホンダ・インサイトなどハイブリッド車に代表される環境性能が注目されます。ここからは(2013年)当時の自動車雑誌の状況をざっと見ていきます。
「モーターマガジン」も部数減に直面せざるを得ませんでした。当時の同誌は総合誌としてのスタンスは保ちつつ、その中でも確実な読者層を見込める欧州車、中でもドイツ車に核を持ってきていました。編集長を務めていた荒川雅之氏は、「専門誌ならではの視点で、多少なりとも豊かなクルマ文化を未来に育てていけるようになればいい。ドイツと同じで日本は自動車産業で食べている国ですから」と語っています。日本の基幹産業として自動車がありつづける限り、その中での自動車雑誌の求められる意義を見据え、試行錯誤しながら発行していこうという意思が感じられます。
●モーターマガジン創刊時の話はこちら。
一世を風靡したとも言える「カーグラフィック」を見ていくと、大きな変化として2010年に発行元が株式会社二玄社から株式会社カーグラフィックに移行されたことがあります。姉妹誌の「NAVI」の休刊に続いてのことであり、自動車雑誌を取り巻く環境の厳しさを知らしめる出来事となりました。
ただ、大きく編集体制が変わった中でも、同誌は従来の自動車総合誌のスタイルを崩さずに発行を続けているのも特徴的でした。当時の編集長の田中誠司氏は、「書店で『カーグラフィック』を手に取った方の期待は多岐にわたると思います。その中で、できるだけ広い選択肢を用意していきたいと考えています。マニアックな読者も大切にしながら、今まで以上にいろいろな期待に応えられるようにしたい。自動車趣味の多様化に応えることは、雑誌の使命だと考えています」とその思いを語っていました。
カーグラフィック創刊時の話はこちら。
同誌を特徴づける記事のひとつとして「ロードテスト」と「比較テスト」の両方のテストがありますが、それを継続しつつ、さらにそれをあわせた「ジャイアントテスト」の頻度を増すことや、同誌の伝統ともなっている長期テストも継続して行うことなど、より手間暇をかけた作りを目指しているようにも感じられました。
「一時期例外的に借りたクルマで長期テストを名乗ったことがあったのですが、それは本誌のブランドにそぐわないということで、現在は2年以上を目安に購入して行っています。我々自身がお金を払って購入したものですから、メーカーを慮ることなく、率直に書くことが出来ます」と田中氏は言います。
それは、創刊メンバーの小林彰太郎氏や高島鎮雄氏が「暮しの手帳」に強い刺激を受け、その自動車版として同誌を位置づけていたという精神を引き継ぐものでした。
ただ、田中氏は「クルマ全体が良くなって、かつてのようにここがだめ、ここは良くないと言うのも楽ではなく、クルマを購入する際にどのように役に立つものにするのかを考えることが重要」とも言っていました。
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