自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(7)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第7回となります。

「スピードマインド」は参加型モータースポーツマガジンを謳った。当時「走る人」が急増しておりジムカーナーやダートトライアルなどに参加できる国内Bライセンスホルダーが増加していた背景がある。

モータースポーツを見るだけではなく、自ら参加しようという層がとくに増えたのが1980年代後半です。国内競技はJAFが競技ライセンスを発行しているが、年々ライセンスホルダーが増えました。国内Aライセンスもだが、講習会に参加すれば取得できる国内Bライセンス競技に顕著で、ジムカーナダートトライアル、ラリーの競技人口が増えていた時期です。

この頃「オートテクニック」が創刊当時の参加する側というスタンスから外れていった時期でもあります。同誌の発行元である山海堂からは、1987年にF1速報誌である「グランプリエクスプレス(GPX)」が創刊され、主力がそちらに移っていた面もあるでしょう。

そうした流れの中で1987年に「スピードマインド」が創刊されました。これはモータースポーツ参加型マガジンと銘打ち、「オートテクニック」の編集長であった飯塚昭三さんが企画したもので、創刊編集長となりました。同誌創刊号には飯塚さんが「このエネルギーをどうする!」と題したコラムを寄稿しています。

内容はJAFが国内モータースポーツを統括している現状とその意味、変化した国内モータースポーツ界と、モータースポーツに適したクルマが増えていることを踏まえて、

「非公認競技の増加や、峠族の出現は走り屋のエネルギーをもはやJAFが吸収できなくなった表れではないだろうか。モータースポーツの統括力を越えた結果ではないだろうか。JAF運輸省(当時)との関係でエネルギーが暴走しはじめていると言っても過言ではない。現在の状況が一過性のものならいいが、このエネルギーが急に衰えるとも思えない。JAFのワクから外れたこのエネルギーをどういう方向に持っていくのか、これはJAFはもちろん、自動車メーカーおよび関連業界が真剣に考えていくべき問題ではないだろうか。取り締まり当局も、単に締め付けるだけで問題が解決すると思って欲しくない」

としつつ、当時の参加型モータースポーツの周辺をもういちど見つめ直し、対処の方向を見出すことを提唱しています。これは「オプション」や「CARBOY」といった峠を含めた「公道路線」をいった一般自動車誌も多分に意識してのことでしょう。

同誌の特徴として、それまでマイナーとされてきたジムカーナに多くのページを割いていたことがあげられる。一番ノーマルに近いクルマで参加できたこともあり、間口が広かったこともあるだろう。誌面ではドライビングテクニックも詳解していた。

上記のような主旨に基づいたスピードマインド創刊号では、「オートテクニック」のようにトップカテゴリーのレースレポートをメインにすることなく、富士フレッシュマンレース、地方選手権ジムカーナダートトライアル、ラリー選手権のレポートを行っている。WEC in JAPAN(世界耐久選手権)も、そのサポートレースのみのレポートを掲載するなど、それまでのモータースポーツ専門誌では見られない構成となっています。

連載企画でも「サーキットの走り方」としてトヨタ、日産、いすゞでワークスドライバーを務めた津々見友彦氏が執筆。また「Speed mindジムカーナレッスン」として、トップジムカーナドライバーとして活躍していた高橋宏尚選手による読者参加の誌上レッスンや、後には熱血桜井道場!として全日本ラリードライバーの桜井幸彦選手によるダートドライビングを行うなど、参加する人のための役に立つモータースポーツ誌のスタンスを明確にしています。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(6)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第6回となります。

第二期ホンダF1の活躍や中嶋悟F1ドライバーになる可能性など、モータースポーツ熱が高まる中で創刊された「Racing on」従来のモータースポーツ専門誌にない、ビジュアル重視の切り口が新鮮だった。

サーキットレースに目を向けると、1970年代中盤から80年代にかけてはTVでもF1はダイジェスト版の放送があるに過ぎず、中継はありませんでした。その点で、「AUTO SPORT」や「オートテクニック」が唯一に近い情報源と言えたわけで、モータースポーツ専門誌が重用される時代となっていました。国内レースは全日本F2レースや富士GCレースのTV放送が行われており、一定のファン層ができていました。国内レースが現在より身近とも言えました。リアルタイムではないにしろ、TV放送を見たのちに詳細に関しては雑誌で情報を得るという循環ができていたと言えます。

モータースポーツモータースポーツ専門誌がさらに活況を呈してくるのは80年代後半になります。まず、ホンダのF1復帰がブームの火をつけました。ネルソン・ピケアイルトン・セナナイジェル・マンセルアラン・プロストといった個性のあるドライバーの存在に加え、日本人初のフルタイムF1ドライバーとして、中嶋悟ロータス・ホンダで参戦したこともブームを一層盛り上げました。

このような中、新たなモータースポーツ専門誌として1986年に武集書房から「Racing on(レーシングオン)」が発行されました。創刊当時のモータースポーツの隆盛をふまえ、創刊編集長の三好正巳さんは「Racing on MEMORIES」でこのように述懐しています。

「Racing on」はF1ブームと重なってくる。ウイリアムズ・ホンダ、ロータス・ホンダなどが、ポルシェやルノーのエンジンを圧倒したことで国内のブームに拍車がかかり、同誌も多くの読者に支持された。

「(~略)この頃、日本のモータースポーツ界は勢いづいていた。新たなスポンサーが続々と参入し、F3000もCカーもグループAも大ブレーク前の“地鳴り”が聞こえていた。なかでも日本のF2で5度の王者に輝く中嶋悟がホンダの支援を得て本場欧州のF3000に参戦する状況は、F1で破竹の進撃を続けていた「ホンダパワー」との接点が垣間見える、実に胸がときめくプロジェクトであった(略~)」

としつつも、それを単にレポートやメカニズム解説として伝えるのみで「感動」として伝え切れていない既存メディアに不満を述べた上で、「感動」そのものを満載した雑誌として「レーシングオン」を創刊した旨を書き記しています。旧来の「AUTO SPORT」、「オートテクニック」に欠けていたエンターテイメント性という要素を加え、F1ブームの到来に時期をあわせるように創刊されたのが「Racing on」と言えるでしょう。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(5)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第5回となります。

ラリーを中心としたモータースポーツ専門誌としては「プレイドライブ」が台頭していました。創刊時は以前紹介したように1968年に創刊した「ドライブ旅行」というドライブを主体とした一般自動車雑誌で、モータースポーツのイメージは薄いものでした。創刊編集長の宝崎秀敏さんはこう言います。

👇「ドライブ旅行(プレイドライブの前身)」創刊時の話はこちらから

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1968年創刊の「ドライブ旅行」は商標登録の関係で題字を「プレイドライブ」と変更する。シトロエン2CVの表紙を見てもわかるように、モータースポーツ専門誌を謳っていたわけではないが、中身はその色が強くなりつつあった。

「当時は、何か面白いことをやりたいという思いが先行していて、計算をした上での創刊ではありませんでした。高度成長期でもあり世の中が大きく変貌して、駆け足でいかないと追いつけない雰囲気もありました。雑誌を立ち上げると決めたのは、1967年の押し詰まった頃で、その翌年の5月に「ドライブ旅行」を発行するために会社を設立しました。それが海潮社です。友人、知人を口説いてとにかく内輪で作ろうということにしました」

見切り発車のようにも思えますが、宝崎さんには時代の流れとして、これからの旅は、鉄道や船や飛行機だけではなくて、クルマが主役になるという読みがあったのも事実。そういう面では「ドライブ旅行」というタイトルもピッタリでした。ただ、商標権の問題があり「プレイドライブ」としたのは以前に触れた通りです。

同誌の創刊時にはすでに「日本アルペンラリー」や日本を縦断するような「富士~霧島4000kmラリー」などが盛り上がってきた時代です。そして1969年に「第1回DCCSウインターラリー」の取材に行ったのが同誌の方向を決めるひとつのきっかけとなります。宝崎さんの話を続けます。

「そのラリーには、自動車メーカーのワークスチームが出てきていました。我々も自動車メーカーとのお付き合いがはじまっていて、広報部から面白いから取材してみたら? と誘われました。それでスタート地点の東京の神宮外苑絵画館に行ってみたら主催者からコマ地図を渡されて、これを使って取材してくださいと言われました。コマ地図を見るのも使うのもはじめてだったので、最初は無我夢中でよくわかりませんでしたが、地図を追って走っているうちにコマ地図の楽しみを発見しました。ラリーの面白さはよくわかりませんでしたが、コマ地図がひとつの地図表現として面白かったのです。これは使えるぞ、とひらめいた」

この宝崎さんのアイデアから、コマ地図を実際に使ったドライブ企画を誌上で展開することになり、これが後の「PDラリー」のはじまりとなります。

「第3回までは編集部で作ったのです。ラリー風ドライブとして、その方向で読者の支持を得られれば、本来のテーマであるドライブを軸にして軽井沢や京都などの観光地に行くような方向に行っていたと思います」

プレイドライブ」をラリーの方向に近づける契機となったコマ地図。ロードマップにはない意外性に楽しみを見出したのが「PDラリー」のそもそもの始まりだった。

ただ、その第3回目でコマ地図のY字路の進行方向を逆に表記するという作製ミスをしてしまい、それをきっかけに「プレイドライブ」がモータースポーツ雑誌の方向に向かっていくことになります。コマ地図の間違いをワークスチームPMC・S(プリンスモータリストクラブ・スポーツ)の尾針得助さんに指摘されたのです。編集部に「素人じゃ無理だし危険だ。俺が作ってやるよ」という主旨の連絡があったのです。尾針さんは当時からトップラリーストで、その指摘は的を射たものでした。

「コマ地図を間違ったことが、運命のY字路になった」と宝崎さんは言います。

その後、「プレイドライブ」の発行は海潮社から芸文社に移ります。これは1973年の第4次中東戦争に端を発したオイルショックが原因でした。石油関係の物資の価格が上がり、紙も逼迫して製作原価が跳ね上がったのです。

芸文社に移ってもモータースポーツ専門誌というわけではなく、何が読者にウケるか試行錯誤をしていた状態です。そうはいっても国内外のラリーの取材を始めるようになっていましたから確実にモータースポーツの方に近寄っていたのは事実です」と宝崎さん。

1970年代のラリーに関しては日本の自動車メーカーがサファリラリーなどの耐久性が問われるイベントを中心に、積極的に世界に出ていった時代です。80年代にはWRCで日本メーカーが活躍するようになりますが、その布石がここで打たれていたといえるでしょう。自動車メーカーにとってモータースポーツがより重要な時代が来ており、プレイドライブもその波に乗っていきました。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(4)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第4回となります。

1969年に創刊された「オートテクニック」。あくまでもサーキットの中にいる人を対象とした内容で、先発の「AUTO SPORT」との棲み分けを図った。

後発のモータースポーツ専門誌としては、1969年に理工系出版社である山海堂から「オートテクニック」が創刊されました。「AUTO SPORT」が観戦型の雑誌だったのに対し、「オートテクニック」はレースに出場するための参加型の要素が強くなっていました。同誌の創刊編集長は尾崎桂治さん。尾崎さんは三栄書房の「モーターファン」編集部に在籍の後、山海堂に移籍し「内燃機関」の編集部にいました。創刊のきっかけとなるのは、同社の飯塚昭三さんから働きかけられたことと言います。

山海堂というのはすごく保守的な会社で、辞めてもいいかなと思っていたところに飯塚君から話があった。僕はこんな会社でできるわけはないと思っていたんだけど、飯塚君が熱心だったし内容的にも興味がある部分だった。もうちょっと考えたら?とその時は言っておいたんだけど、飯塚君がすぐに30ページくらいの企画書を書いてきた。そこまで言うんだったらやろうということになった。ちょうど僕が「モーターファン」に入ったときに鈴鹿サーキットができて、第1回の日本グランプリのときは取材に行っていたから、ある程度事情に通じていたこともある」と尾崎さんは振り返ります。

積極的に同士の創刊を進めた飯塚さんは、山海堂に入社する以前からモータースポーツ好きで、自らもドライバーとしてレースに参加していました。

「第1回、第2回の日本グランプリは、観客として鈴鹿サーキットに見に行っています。山海堂に入社して、最初からモータースポーツ誌をやりたい気持ちはありました。当時は自動車の整備シリーズの書籍を作っていたのですが、執筆者の矢田平祐さんが「自動車工学」で自動車のチューニングアップの連載をしていたのを覚えていて、「自動車のチューニングアップ」という単行本を書いてもらいました。その本がけっこう売れて「オートテクニック」の企画が通る要因になったのではないかと思います」と言います。

企画が通ってからのことを尾崎さんはこう振り返ります。

「僕が最初に考えたのは「AUTO SPORT」のライバル誌を作る必要なないということ。あちらが観客席にいる人が読む雑誌だとしたら、僕はサーキットの中にいる人が読む本を作りたかった。それはドライバーだけではなく、コンストラクターやエンジニア、チューナー、それからラリー関係者も含めてモータースポーツを自分でやる人たちの本にしようと考えていた。望月修さん(三菱ワークスドライバーの後、モータージャーナリスト)のレーシングテクニックの連載なんていうのも、そのコンセプトから生まれた企画だった。メカニズムの記事しても「内燃機関」の編集部にいたからロータリーエンジンのチューニングだとか、プリンスR380の開発の話も依頼をはじめていました」

創刊号の同誌を見ると、稲垣謙治の劇画調のイラストによる表紙が目を惹きます。最初の扉ページにはカラーでガルウイングメルセデス・ベンツC-111の写真が掲載されており、次の見開きページにはトヨタ7、日産R382のテストの様子が紹介され、時代の空気を感じられる部分です。「富士ゴールデン300キロレース第3戦」、「富士セダン・レース」、「富士ミニカーレース」などのレースレポートもマシン解説を交えて詳細に記されています。

創刊号ではトヨタ7と日販R382という、当時の日本グランプリを象徴するビッグマシンのテストの様子がレポートされている。自動車レースの社会的な注目度も現在より高かった。

特集として「現代における高性能車の条件」が掲載されており、日産の桜井真一郎とホンダの森潔、自動車評論家の星島浩が鼎談を行っていますが、内容はエンジンやサスペンションだけでなく、すでにエアロダイナミクスの問題にまで触れられているのが興味深いところ。加えてレーシングテクニックや「トヨタスポーツコーナー訪問」などのプライベーターのサーキット走行、マシンチューニングに役立つ記事も掲載されているのが、「参加型」を感じさせる部分です。

「僕はあまり部数を伸ばすことには神経をつかっていない。1960年代は自動車メーカーがレースを主導した。オイルショック以後の70年代はそれがなくなった。「オーテク」の功績はレースの底辺を広げるのに積極的な役割を果たしたことだと思う。ジムカーナも取り上げて、そういうのを盛んにするというのも意識的にやりました。ラリーもあちこちで散発的にやっていたのを、JMS日本シリーズとしてシリーズ化するのも中心になってやりました」と尾崎さんは言います。

1980年代前期のオートテクニック。いわゆるF1ブームに至る前だったが、ワークス系チームやプライベーターが入り混じって、全日本F2、富士GC、グループCレースなどが盛り上がりを見せていた。

童夢など国内レーシングマシントンストラクターが活躍したのも80年代。当時、スーパーカーブームの余波もあり、レーシングマシンへの興味が高まっていた時代だ。

二代目編集長となる飯塚さんは、尾崎さんとともに気づいてきた路線を継承していきます。1976年にはF1世界選手権イン・ジャパンが開催されます。フェラーリマクラーレンタイレルティレル)、ロータス、日本製F1マシンであるコジマ(KE)などのF1マシンへの興味が高まり、世界のトップドライバーが来日し、高橋国光、高原敬武、長谷見昌弘星野一義などの日本勢が混じって戦う構図が誌面を飾ります。折からのスーパーカーブームもそれに拍車をかけていました。「AUTO SPORT」、「オートテクニック」をはじめとしてモータースポーツ誌はもちろん、一般自動車雑誌も多くのページをさきF1記事を掲載しました。1977年のF1日本グランプリで観客を巻き込む死亡事故が発生してしまったため、以後10年間はF1は開催されなくなりますが、それでもF1ブームの余波は残り、国内レースは活性化していたと言えます。全日本F2、富士GC(グランチャンピオンレース)を頂点に、ツーリングカーレースもプライベーターを中心に活発に行われていました。ジムカーナなどの比較的手軽なモータースポーツも各所で行われるようになりました。

「広告もどんどん増えていく時代でした。モータースポーツ関係、クルマの用品、部品業界も成長期に入っていました。そういう時代から雑誌も広告媒体としてよかったのだろうと思います。本誌もすごく厚くなっていきました」と飯塚さんは当時を回想します。

さらに同誌はラリーにも強く、編集部が国内外のラリーを積極的に取材していました。WRCとなる以前の海外ラリーも積極的に取材をし、後にはWRC全戦を取材、ラリーファンの支持も集めました。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(3)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第3回となります。

ja.wikipedia.org

平凡パンチ」は自動車専門誌ではないですが、モータースポーツと縁の深い雑誌となります。「AUTO SPORT」を事実上創刊した星島浩さんが三栄書房を退社後、カーデスクとなっていました。同誌は1964年に平凡出版(現・マガジンハウス)から創刊されました。いわゆる男性誌ということで、自動車雑誌に比べれば発行部数も多く、影響力は自動車専門誌よりも大きいものでした。アメリカの東海岸の名門校からなる「アイビーリーグ」のファッション、「アイビールック」を取り入れたVANの創始者である石津謙介や、人気レーサーの生沢徹、福澤幸雄、式場壮吉などを誌面に登場させることにより、クルマ好きの読者の支持を集めていきます。星島さんはそれに関わることになった事情を語ってくれました。

「1963年の暮れに三栄書房を辞めることが決まりました。ちょうどそのときに「平凡パンチ」を創刊することになっていて、三保敬太郎(作曲家、レーシングドライバー)だとか保富庚午(放送作家、作詞家)だとか、親しくしていた方々が誘ってくれました。企画の柱はファッション、映画だとかいろいろなものがありましたが、その中にクルマやバイクがありました。それで情報提供や執筆を頼まれました。第2回日本グランプリの直前でしたので、私は、第1回日本グランプリでコロナで勝った式場壮吉が、トヨタからの資金でポルシェのプロトタイプを買い込んで、プリンス勢をやっつけるつもりだという記事を書いたのです」

平凡パンチ」の創刊号は、大橋歩によるアイビールックの青年がクルマの周りに集まっている表紙のイラストが目を惹きます。星島さんの書いた第2回日本グランプリが巻頭記事となっています。キャッチは「25歳の式場選手がレーサーの命をかける ポルシェ904をめぐるナゾ」といささか扇情的なものでした。これも時代を感じさせる部分です。そこには、第1回日本グランプリトヨタがパブリカ、コロナ、クラウンで三種目に優勝したことでの広告効果の高さや、その影響の大きさに各メーカーが第2回グランプリで優勝すべく、競争がエスカレートしていく状況が記述されています。

黎明期のトップドライバーである式場壮吉選手が第2回日本グランプリにポルシェ904を持ち込んだことは大きな話題となりました。

そうしたなかで、トップレーシングドライバー式場壮吉が、鈴鹿サーキットにポルシェ904とともに姿を現した写真を掲載。これがプリンス・スカイラインをはじめとする国産車に対抗できる有力な車種がないトヨタが画策したものだという噂をめぐった記事内容でした。

「読者からこの記事が一番面白かったという反響がありました」と星島さんは言います。

1960年代「AUTO SPORT」や他の自動車雑誌、そして「平凡パンチ」は日本グランプリでのトヨタ、日産、そしてブリヂストンをバックとしたレーシングチームであるタキレーシングの競争を「TNTの戦い」として大々的に取り上げました。日本のモータリゼーションを引っ張る大メーカーと、ブリヂストンタミヤといったスポンサーを得たタキレーシングというプライベート系チームの熾烈な争いはクルマ好きのみならず、一般的な若者層にも大きな話題となったのです。

このように一般男性誌がメインでモータースポーツを取り上げるような状況にあったという時代背景は今となっては隔世の感があります。それだけ「クルマ」は魅力的な存在感を放っていたのでしょう。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(2)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第2回となります。

1963年の「第1回日本グランプリレース」を機に発行された「モーターファン6月臨時増刊オートスポーツ」は64年に季刊となり「モーターファンAUTO-SPORT」として正式に創刊された。

鈴鹿サーキットでの四輪レースに先駆けて1962年11月に、オープニングレースとして二輪の「第1回全日本選手権ロードレース」が開催されました。これを「モーターファン」が取材し、臨時増刊「スズカ2輪GP特集」を刊行しました。これがモータースポーツ専門誌「AUTO SPORT」の創刊への布石でした。当時「モーターファン」編集次長で「AUTO SPORT」創刊責任者となった星島浩さんに聞きました。

👇モーターファン創刊時の話はこちら

yoiijima.hatenablog.com

「すでに1962年の9月頃から二輪の全日本選手権レースを前提とした走行会だとか練習会がはじまっていました。雑誌作りに関しては、鈴鹿サーキットで待ち構えていて取材するだけですから、そんなに苦労とは思いませんでした。ただ、今と違って国道1号線の半分以上が砂利道で、そこを使って行かなければならなかったので、鈴鹿に行くので時間がかかるのが大変でした。夜遅くして、翌日の朝ようやく到着するという感じでしたから」

翌年の5月に「第1回日本グランプリレース」が開催されます。そして「モーターファン6月号臨時増刊オートスポーツ」は「第1回日本グランプリ特集号」となります。誌面では詳細なレースレポートを掲載しながら、企画ページも充実しています。「ロータスを生み出す男・コーリン・チャップマン物語(柏木治郎)」、「世界の主なフォーミュラ1レーサー(栗田一夫)」、「世界のGPレース・サーキット」などの記事が目を引きます。当時は母体となる「モーターファン」が認められる段階でもあり、「AUTO SPORT」の発行部数も限られたものでした。星島さんはこう言います。

「AUTO SPORTで儲かるなんて思っていなかったです。ただ、将来モータースポーツが盛んになった時代には、独立した雑誌として認知されるようになるだろうとは考えていました。臨時増刊、季刊、月刊と進んではいきますけれど、それでも儲けるつもりはなくて、世の中に認知してもらうように努力しようというくらいのものです」

「モーターファン増刊」だった「オートスポーツ」は、「第2回日本グランプリ」から季刊「モーターファンAUTO-SPORT」として正式に創刊されます。このとき誌名を「オートスポーツ」から正式に「AUTO SPORT」に変更します。このときの逸話を星島さんは聞かせてくれました。

第2回日本グランプリを終えての座談会。モーターファンのレギュラー陣、工業デザイナーの由良玲吉氏などを交えて意見交換がなされている。

創刊号は第2回日本グランプリの特集。ツーリングカーレース、スカイラインが活躍したGTレースが注目されたが、メインレースはフォーミュラカーによるJAFトロフィーレースだった。

「臨時増刊のときはオートスポーツと片仮名で書いてありました。だけど、1冊の雑誌にするなら、かっこよくアルファベットにしようと思ったのですが、鈴鹿サーキットのオーナー会社がAUTO SPORTのタイトルを登録してありました。いったんは他の名前に変えなければだめかと思いましたが、ホンダの藤沢武夫副社長が、タイトルを譲ってやる。ついでに広告も出してくれると言ってくれました。これはありがたかった」

このように自動車メーカーからのバックアップもあったのです。

実質の創刊号となるこの号では、プリンス・グロリアが表紙を飾り「第2回日本グランプリレース」の詳細なレポートを行っています。実は星島さんは、1963年末に出版元の三栄書房を退職。フリーランスとしての参加でした。すでに仕事の主軸を「平凡パンチ」に移していました。その経緯は次回に。

モータースポーツ熱が高まるなか、1965年には、都心から近い千葉県に船橋サーキットがオープンしました。都心に編集部を構える自動車雑誌にはこれも好都合でした。同サーキットは、小規模なサーキットでしたが、盛んにクラブマンレースが行われ、各自動車雑誌のページを飾ります。

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残念なことに船橋サーキットは1967年に閉鎖してしまいますが、モータースポーツの黎明期に浮谷東次郎、生沢徹などのスタードライバーが誕生したという功績を残したことは事実です。とくに浮谷は走ること以外にも多彩で「AUTO SPRT」の特集記事として「鈴鹿サーキットの攻め方」を寄稿。さらに「ドライバー」誌ではダイハツ・コンパーノなどの試乗インプレッションも行っています。また、「がむしゃら1500キロ」などの著書でも知られています。

👇ドライバー誌創刊の話はこちら。

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(※画像はすべて許可を得て掲載しています。転載を禁じます)。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(1)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身はわりとやわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第1回となります。

自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史の一回目はこちらです。

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モータリゼーションモータースポーツ誌の関係を書いていくにあたって、まず日本で本格的なモータースポーツが開催されるまでの概要について軽く触れておきます。

第二次世界大戦前から日本でモータースポーツは開催されていました。1922年の東京・洲崎で行われた「第1回日本自動車レース」がはじまりとされていますが、どこかで誰かが個人的に行っていたものもあるかもしれません。1936年には神奈川県に日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」が建設されました。全長約1200mの変形オーバルコースで、二輪車、四輪車によるレースが盛んに行われました。一定の盛り上がりを見せた戦前のレースは戦争により中断することを余儀なくされます。

ja.wikipedia.org

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戦後の四輪のレースを見ると、自動車メーカーが本格的なモータースポーツ活動をするのは国際ラリーからでした。日産自動車が、1958年8月の「第6回オーストラリア1周モービルガス トライアル(豪州ラリー)」に、2台のダットサン210のラリーカー「富士号」と「桜号」をエントリーさせています。19日間、約1万6600kmのコースで「富士号」がクラス優勝「桜号」がクラス4位に入賞を果たしました。戦後のモータリゼーションの黎明期に国際ラリーで好成績を挙げたことは、自動車メーカーに大きな自信を与えたといえます。

写真は1964年に鈴鹿サーキットで開催された第二回日本グランプリ

本格的なサーキットレースは1962年にホンダがスーパーカブの生産のために作った三重県鈴鹿製作所の近くに、テストコースを兼ねたレース用サーキット「鈴鹿サーキット」を建設したことにはじまります。ここで戦後はじめての本格的な自動車レースとなる「日本グランプリレース」が行われました。モータースポーツは、当時の最先端のクルマが競い合い、レーシングドライバーという若者の憧れとなる選手が活躍する場となったことで、1960年代のモータリゼーションの一番華やかな部分を受け持つことになります。

自動車雑誌にとっても格好のネタとなったこともあり、この当時は、どの自動車雑誌モータースポーツを企画の柱にしていました。現在では、自動車雑誌モータースポーツ専門誌は違う媒体のようになっていますが、60年代後半から1973年の第一次オイルショックあたりまでは、自動車雑誌、そして一般男性誌にとっても、モータースポーツはなくてはならないものでした。

次回からは個々の雑誌を見ていくことにします。

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「グループAレース クロニクル JTC9年間の軌跡」刊行に寄せて

1985年のインターTECはボルボ240ターボの独壇場。それに続くのがスタリオン。

グループAによる全日本ツーリングカー選手権が盛り上がった!

「グループAレース クロニクル 1985-1993 JTC9年間の軌跡(モーターマガジン社)」というムックを企画、編集、執筆した。この9年間は日本のツーリングカーレースで最も熱く、人気を得た時代だった。もともとグループAという車両規定は、「自動車レースというのは放っておけば際限なくお金の掛かるものなので、改造範囲を絞り普通のクルマで、できるだけコストをかけずにやろう」というコンセプトというか建前から生まれたと言っていいだろう。それによる本格的な国内レース(JTC:全日本ツーリングカー選手権)が始まったのが1985年で、私は19歳の頃だから一応大学生で、アルバイトとしてモータースポーツ専門誌の編集部員になる前のことだ。

実はその頃ほとんどレースへの興味を失っていた。もともとF1ファンではあったが1980年代に入ると、自分も成長したのか?なにやら非常に縁遠い世界に感じられたし、趣味でレースに出るにもけっこうなお金が掛かる現実にちょっとうんざりしていた。ただ、モータースポーツ全般に興味を失っていたわけでもなく、当時、グループAの上位カテゴリーで改造範囲が広かったグループBによるラリー記事を読むことや、そうしたグループBのアウディスポーツクワトロ、プジョー205ターボ16、ランチアデルタS4などが大迫力で走る映像をビデオで見ることに熱中していた。そんなこともありグループAでJTCが始まったということに対してあまり興味はなかったし、85年がグループAによるJTCの初シーズンだったという記憶もない。

ボルボ240ターボが速いことを知る人はかなりマニアックだったのでは?

そんな状態でも、85年末にインターTECという国際格式のグループAレースがあり、ボルボが圧倒的に速かったというのは、自動車雑誌を中心にけっこう話題になっていた記憶がある。私にもボルボスウェーデンの自動車メーカーという程度の知識があるのみで、ほぼ興味の対象外。当時は代理店の関係で「帝人ボルボ」と名乗っていたが、「なぜ帝人?」という思いもあったりした。その後、「ボルボ ジャパン」になってから安全性を強く打ち出したり、頑丈だから身体を守りたいスポーツ選手が乗っているということが喧伝されたりされたように思う。

1985年の第1回インターTECの記事はおそらく「オートスポーツ誌」か「オートテクニック誌」のどちらか、あるいは両方で読んだのだと思うが、ボルボ240ターボはお世辞にもかっこいいとは言えない。当時は「フライング・ブリック」というよりは「走る弁当箱」みたいに言われていたのではないかと思う。ただ、欧州のレーシングカーの懐の深さを感じたのは事実だった。

さらにその年のインターTEC意外だったのが、スタリオンの登場だ。「スタリオンってこんなに速いんだ」ということと、かつての日産の顔とも言える高橋国光選手が三菱車に乗っていることが驚きだった。三菱(というか、その当時は日産もトヨタも、だったが)といえば、「ラリーの」という枕詞が付くイメージだったのが、日産、トヨタに比べると三菱は国際ラリーではぱっとしないなと思っていたところへ、スタリオンのレース参戦で、唯一海外勢に応戦していることに驚いた。

インターTECでスタリオンが株を上げたのは事実だ。

三菱のサーキットレースというと、家にあった子供向けの百科事典の「機械・工業」巻に雨の中で走る「コルトF2000」の写真がキャプション程度の解説で載っていたくらいでレースに出てくるとは思っていなかった。ボルボよりは身近ではあったが、ほぼ同様にスタリオンも「よくわからないクルマ」という認識だったのが、「サーキットで速いクルマ」というふうに記憶が書き換えられた。あとは、「スカイラインはもうちょっと何とかならないのかな?」という感じがこのレースの感想だった。

ただ、今になってグループAレースが人気があって当然だろうなと思うのが、当時の私の回りにあったクルマを思い返すとはっきりする。その頃は某高校でアルバイトをしていたのだが、先生達のクルマがS12シルビアRSだったりAE82カローラFXだったりした。さすがにスカイラインRSやボルボはいなかったが、そうした身近なクルマが走っていたJTCの人気もむべなるかなと思う。逆に今でも大人気のAE86レビン/トレノは、モータースポーツを考えた場合当たり前過ぎる選択で、とくに話題にもならなかった。

その後、インターTECにはジャガーXJSが来たり、フォードシエラRSコスワースが来たり、ベンツ190E2.3-16コスワースが来たりと、大雑把ながら概要は認識していた。トヨタが全然だめだったセリカXXから3.0リッターターボのMA70スープラを投入。それに、ウイリアムズでF1タイトルを獲ったアラン・ジョーンズを連れてきて乗せ、インターTECではないが、スポーツランド菅生で優勝してしまうということもあった。

1987年の第4戦ではMA70スープラがデビューウイン。

F1のタイトルホルダーと言えば1978年/マリオ・アンドレッティ、1979年/ジョディ・シェクター、1980年/アラン・ジョーンズ、1981年/ネルソン・ピケと記憶しているほど、このあたりまでが「マイF1ブーム」だったので、国内登場はかなりインパクトのある出来事だった。横道ついでに書くと、ウイリアムズも毎回テールエンダーみたいなチームだったのが、スポンサーがついて資金難から脱するといきなり速くなった印象がある。「やっぱりレースはお金なんだな…」ということを14、5歳にして感じたものだ。

日産が見せたモータースポーツ魂がグループAを決定づけた

1987年になると、日産がスカイラインGTS-Rを投入する。この頃は私はアルバイトでモータースポーツ誌の編集をしていた頃になる。ただ、私はダートトライアルを担当していたために、ほぼ同時期に発売されたブルーバードSSS-Rに目が行っており、そんなに強い印象は持っていない。ただ、当時念願のジェミニZZ-Rを入手した私は、夜な夜な?東京の西部奥地に行くようになっており、その折に日産自動車村山工場工場の前を通りかかったときに、ゲートから工場の制服を来た2名を乗せたGTS-Rが出てきた場面に遭遇したことがある。もしかすると正式発売の直前だったかもしれない。何らかのテストドライブだったのだろう。

さすがにその後を追うことまではしなかったが、ハイソカー然としたそれまでのR31スカイラインとは違った迫力をまとっており、メーカーも本気なんだなという思いを抱いたのは事実だ。ただ、レースというのは放っておくと加熱してしまうものなのはお決まり。当初の普通にあるクルマを、グループA規定内でチューニングして…という感じではなく、メーカーが本腰を入れてということになると、プライベーターには付け入る隙はなくなってしまったのは事実だ。

車両自体も価格が高くなり、多くのスポンサーを集めて、メーカーや有力チューナーがチューニングしたクルマでしか勝負できなくなる。ただ、どの車種にも勝てる可能性があるという部分では、このスカイラインGTS-RやスープラターボAの登場くらいまでという面白さは残されていたように思う。

BNR32スカイラインGT-Rの登場はあらゆる意味でグループAを決定づけた。

BNR32スカイラインGTRが登場したのが平成元年(1989年)のことだ。グループAで勝つためのあらゆる要素を盛り込んだこのクルマが出てくると、国産車はもちろん欧州車勢も駆逐してしまった。もっとも欧州は欧州ですでにグループA自体が衰退していたという事情もあるが。日産ファンはこれにハコスカGT-R時代の伝説を重ねて見ていた。そしてドライバーは高橋国光長谷見昌弘など当時のドライバー自体が走っているのだから、感慨はひとしおだっただろう。1990年の西日本サーキットから1993年の最後のインターTECまで負け知らずの強さを見せることになる。

とくに日産党ではなかった私はスカイラインGT-Rに関しては、「すごいな…」と思うのと同時にクルマというよりは「レースに勝つための機械」という感じで、どうも愛着が湧きにくい感じを持ったのも事実。買えるはずの価格ではなかった分もその印象に込められているようには思うが。横道ついでにさらに書けば、その当時の上司がこのスカイラインGT-Rを購入した。彼はもちろん我が子のようにGT-Rを愛していたように見えたし、無作法にでも触れようものなら、烈火のように怒ったに違いない。まあ、人それぞれ。

そういえばハイパワー4WDということで、意外にもラリー、ダートトライアルといった土系のドライバーに人気だったことも付け加えておこう。全日本ラリーで複数回チャンピオンタイトルを得て、WRCにも参加したS選手は、スポーツランド信州のギャラリーコーナーに本気でツッコミクラッシュした。実は、その日は直前までパルサーGTi-Rで走行しており、軽く流す程度で走るつもりだったのが、走っているうちにパルサーに乗っているつもりになり、コーナー内部でGT-Rであることに気がついたと、本人は語っているのでご愛嬌ということころ。

スカイラインGT-R自体はダートトライアルで複数台が改造車として参加し、一定の成績を収めている。ナンバー付きでも91、92年頃に「トラストスーパートライアル」という優勝賞金200万円というダートトライアルイベントがあり、私の懇意にしている全日本ダートトライアルドライバーも、自らのGT-Rにウェット用のSタイヤを履かせて総合優勝狙いでエントリーしていた。

これは私が最近?まで載っていたBMW M3…。

グループAでの一台ということで言えば、BMW M3の活躍も忘れてはいけないところ。ディビジョン1に括られるスカイラインGT-Rの下のディビジョン2となりクラス違いではあるが、実は1987年の登場以来、1993年のグループAの最終戦までほぼ敵なしの状態となる。このクルマは私の憧れのクルマの1台であり、大分後のことになるが入手するという幸運に恵まれた。書き始めるとおそらくキリが無くなるので、ご要望があればまたの機会にでも書きたいと思う。

ということで、「グループAレースクロニクル JTC9年間の軌跡」好評発売中です。どうぞよろしく。

 

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国分太一のザ・クラフツメンで、サンバーの解説をしました。

10月6日(金)、BSJapanext の「国分太一のザ・クラフツメン」という番組で、スバルサンバーの解説をしました。スマホタブレットからなら、以下のリンクから見られます(10月13日金曜日くらいまで)。PCだとジャパネットの通販ページに行ってしまいます。番組開始22分くらいのところからになります。どうぞ宜しくお願いします。

BSJapanextで国分太一のTHE CRAFTSMENが見逃し配信で見られる!https://japanetapp.page.link/Kjru

 

スポーツランド菅生「スーパー300min」優勝しました。

9月24日にスポーツランド菅生で開催された「スーパー300min」で優勝しました。3人のドライバーで2スティントずつ走る感じで、私は60ラップ弱を走りました。第三ドライバーだったので、最終スティントを担当したのですが、同一ラップに一台いて抜かれると総合3位に転落という事態。ちょっと冷や汗ものだったのですが逃げ切って、総合2位クラス優勝という結果でした。草レースとはいえ、なかなか優勝は難しいので良い週末となりました。

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決勝最終スティントからゴールまで


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決勝ベストタイム

ゴール後、水分補給しながら。けっこうへろへろです。