自動車ライター飯嶋洋治のブログ

編集者、ライターです。「モータースポーツ入門」、「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」(ともにグランプリ出版)、「スバル・サンバー 人々の生活を支え続ける軽自動車の半世紀」(三樹書房)、「きちんと知りたい!自動車エンジンの基礎知識」(日刊工業新聞社)など著書多数。たまにサーキットを走ります。

2017年11月25日の写真から。「2017 トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑」でのベイカーエレクトリック。

左はベンツのパテントモトールヴァーゲン(の確かレプリカ)で、右がベイカーエレクトリック。

2024年なんていうのは、子供の頃の感覚で言えばSFの未来です。1970年代あたりの雰囲気から見れば、石油なんてとうの昔に枯渇してしまい、電気自動車が当たり前のはずでした。当時の子供向けの本もけっこう未来のクルマとして電気自動車が掲載されていた記憶があります。

で、写真は昨日に引き続いてクラシックカー・フェスティバルから。トヨタ博物館所蔵のベンツ・パテントモトールヴァーゲン(再現車)とベイカーエレクトリックです。1885年の秋にベンツはガソリンエンジンで走る3輪車の開発に成功しました。ただ、まだ自動車の動力として蒸気機関がいいのか、ガソリンエンジンがいいのか、電気モーターがいいのか?決着がついていない状況が続きます。

ヨーロッパでの自動車は、貴族の馬車の延長という感じで富裕層の乗り物という面がありました。一方、アメリカでは産業としての自動車が注目されたようです。まあアメリカンドリーム的な何かでしょう。

動力としてはエンジンかモーターかですが、ガソリンエンジンを搭載する自動車の製造に関しては、1895年にジョージ・B・セルデンという人が特許を取っていたために、特許料を支払わなければならないという制約がありました。

そんな背景の中、1899年にアメリカで生産が始まった電気自動車がベーカーエレクトリックです。面倒な上に危険が伴うクランクでのエンジン始動がいらず、ギヤによる変速も必要なく、しかも排ガスも出さずに静かということでかなり優秀な自動車とされていたそうです。

とくに上記の理由から女性に人気があったとも聞いたことがあります。ただ、速く走らせようとすると電力の消耗が多く、航続距離は厳しいという問題点は現代と同じでした。

一方、前記の特許の問題がある中でもヘンリー・フォードガソリンエンジンの自動車を作り始めます。そしてフォードT型(1908)年に完成すると好評を得ると同時に、前記の特許の問題も1911年にフォードとセルデンの裁判で特許を無効とし、決着を付けました。

考えてみると、セルデンの特許とは違いますが、環境問題という制約の中でエンジンの製作が制限されて電機自動車が作られ、現代とはレベルも技術も違うにしろバッテリー容量の問題があって、となんとなく今の状況に似ているような気がします。

こんな状況ではタイヤのない自動車(?)が空中を飛び交うようなSFの世界はまだまだ先のようです。

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2017年11月25日の写真から。「2017 トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑」でのサニー1000。

絵画館前を出発するサニー1000。欧州車的なデザインもかっこいいです。

神宮外苑の絵画館で行われたクラシックカー・フェスティバルに行ったときの写真です。トヨタ博物館所蔵のクラシックカーの展示や、一般参加のクラシックカー(と呼ぶには早いクルマもいましたが)100台ほどが都内をパレード走行しました。この時は、カーグラフィックの副編集長をされた高島鎮雄さんも出席されていて言葉を交わした記憶があります。

写真は日産サニー1000です。サニーというのは個人的に思い入れの深い一台です。というのも、鈑金塗装業を営んでいた父が日産サニー東京販売の仕事を多く請けていたこともあり、だいたいサニーに乗っていた、という記憶があるからです。

とはいってもさすがに初代の1000ではなく、1400GXとかGL、あるいはバンが父のマイカーだったことが多かったようです。ちなみにその次がハコスカGTかな?どちらかというと好きで乗っているのがハコスカ、サニーは仕事の関係で仕方なく…という雰囲気もありました。

普段、取り立ててサニーのことをよくも悪くも言わない父でしたが、あるとき駐車してあるサニー1000を見て「このクルマはよく走るんだよな。今のサニーやカローラよりも全然良い」と言ったことを覚えています。私は小学生高学年くらいだったと思いますが、コラムシフトのサニー1000はさすがにただの古いクルマにしか見えず、「そんなもんなんだ」くらいにしか思いませんでした。

ただ、このあとに1100ccのカローラが「プラス100ccの余裕」で登場し日産がトヨタに差をつけられていくということを知るにつれて、いいクルマだったのにイマイチ評価評価されなかったということで、気になる一台になります。この後の1200GXの方がモータースポーツを含めて活躍したので、より影が薄く見えたこともあるでしょう。

サニー1000は質実剛健というか、走ることだけに特化したクルマで、小排気量エンジンとはいえ600kg台の車重ですから、軽快に走ったことは想像できます。今、こんな割り切ったクルマがあれば…とも思いますが、安楽なクルマに慣れきったことを考えると無理ですね。

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2018年11月23日の写真から。ユーロチャレンジカップにBMW M3で参戦。

ひょんなきっかけで友人のガレージに眠っていたBMW M3を入手しました。トラブルも少なくとてもいい車だったと思います。

まっくろけでよくわかりませんが、筑波サーキットでユーロチャレンジカップに出場したときのBMW M3です。それまではダートトライアルをほそぼそとしていたのですが、M3を入手してサーキット走行に目覚め、初出場したレースがこれでした。

クルマのことは改めて詳しく解説する機会を作りたいと思っているのですが、長年の友人が持っていたもので、その友人がもう一台M3を買うので、私に購入を勧めたのが入手のきっかけでした。ちょっと調子が悪かったのですが、インジェクターの洗浄をした後はびっくりするくらい調子が良くなり、筑波サーキットのライセンスをとってスポーツ走行をしていました。

その後、お世話になっているショップでユーロチャレンジカップという欧州車のレースがあることを聞き、出場に踏み切った感じです。年齢を考えると遅すぎたレースデビューという感はあったのですが、まあ走れるうちは走っておこうという気持ちでした。

参加したのは2000cc~2700cc以下のクラスになり、BMW M3やベンツ190E2.3-16という見た目に派手なクルマになります。まあ、往時のグループAレースを彷彿とさせる感じ。いかつい?クルマがそろった割にはドライバー-が皆フレンドリーなのが救いでした。

ただ参加台数が少なく(多分5台くらい)、速いのは私と同じM3でもスポーツエボリューションの2500ccエンジン搭載のバージョン。私のは2300ccとかなり不利。もちろん技量的にもその2台のドライバーにまったく敵わないという状態でした

予選は1分12秒台のタイムで3位。1位、2位は楽に1分10秒を切ってくるタイムだったと思います。決勝レースでは、スタートと同時に2台のM3に離され、後ろからも結果的に追いついてくるクルマがなかったために、レースというよりは走行会という体で3位になりました。ただ初レースで初表彰台というのは気持ち的には悪くなく、以後レースにはまるきっかけとなったのは事実です。

↓私が編集、執筆した本です。どうぞよろしくお願い致します。

 

 

2018年10月3日の写真から。三菱エクリプスクロスの試乗会。

「アクセル全開で…」という増岡さんの指示のまま急坂を駆け上がってきたところだと思います。

 

2018年10月の写真で場所は静岡のオールラウンドV裾野です。この年はRJC(日本自動車ジャーナリスト・研究者会議)の理事をしていて、三菱のエクリプスクロスを試乗させてもらいました。会場にはパリダカなどでの活躍で知られる増岡浩さんも来ていて、増岡さんのスリリングなドライビングを堪能しました。

実は増岡さんの横というのは初めてではなくて、90年代の現役バリバリの頃にパリダカ仕様のパジェロで経験しています。大ジャンプをして着地の後にこにこしながら「ねっ、全然だいじょうぶでしょ。ショックも少ないし」と言うある種、増岡さんの変態的な様子も見ていたので、今回は市販車ということも含めて大分普通な感じでした。

その後、増岡さんを助手席にして私が運転となります。増岡さんからは抑えて走るような指示は一切なく「あそこのコーナーはアクセル全開でいけますから」とややあおり気味のアドバイスに私も応えるべく?走っています。スラローム的なところでは「けっこうやりますね」的なことも言われて、「ちょっとダートラもやってたので…」と私が言うと、なんとなく納得してくれたようでもありました。

このエクリプスクロスというクルマは、スポーツ走行にはちょっと足が柔らかいかな?という感じはあったのですが、本当によくできた4WD(S-AWC)で、ドライビングが上達したように感じさせるクルマだったように思います。

ダートのコーナリングでもきれいにインに入っていくのですが、そのままアクセルをゆるめずにパワーで回り込もうとすると、どうしても電子制御が介入してパワーを絞ってしまうのが残念でした。もちろん安全性を考えればそれが正解なのでしょうが。

この年、エクリプスクロスがRJCカー・オブ・ザ・イヤーを獲得することになります。まあ、この賞の受賞自体の意味がどうこうというよりも、三菱はリコール隠しやなんやらで叩かれ(当然のことですが)、メーカーとしての存亡の危機に経たされるという厳しい時代を経て、待望の新型車がある程度は世に認められたということはよかったのではないかと思います。

それまで私も三菱自動車に関して(というか基本はどのメーカーに対してもですが)、なるべく距離を置くように心がけているのですが、三菱はいい方向に変わったなという印象を持ちました。

ちなみに私はこの年でRJCを辞したので、選考に関わったのもこの年まででした。

 

 

 

 

DTMチャレンジ参戦記(2)決勝レース編

3月20日(水・祝)、筑波サーキット(TC2000)で開催されたDTMチャレンジというレースに参戦しました。前回からの続きです。

yoiijima.hatenablog.com

予選は2列目イン側となりました。レースは始まってしまえば緊張しませんが、スタートが一番緊張します。

予選3位という位置から決勝スタートとなります。スタート時間は正午。スタート時は曇りでドライ路面ですが、雨雲的には嫌な動きで降雨も予想される感じでした。1ラップ1分10秒程度の筑波サーキットを10ラップという短いレースではありますが、なんとかドライ路面のまま終わらせたいというのが人情です。

スターティンググリッドにクルマを並べます。いつもはもっと後ろの常連という感じの私ですが、今回はポールポジションのクルマの真後ろの2列目イン側。まずはスタートを無難にこなすというのが第一歩となります。ただ、中断以降からのスタートだと前後左右がごちゃごちゃになり下手をすると接触というおそれもありますが、前の方だと見晴らしも良く、その心配は少なそうでした。

レッドシグナル点灯から消灯でスタートですが、今回はまずますのスタートでポールのajさんについていく感じになりました。ただ、私の後ろにいた予選5位のヤナギさんが私の左横を抜けて2番手にジャンプアップします。私は3位キープで周回に入りました。


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●1周目ヘアピン


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前の2台が圧倒的に速いので、このまま3位キープかな…と思っていたら、どんどん近づいて来くるのが予選6位のミヤサン。この方は上位の常連で予選は後ろでしたが気の抜けないドライバーです。

序盤でピッタリ後ろに付けられてしまい、このまま逃げ切れるのか?というのが大きな問題となりました。1周目、2周目、3周目とぴったり後ろに張り付いてきます。そして4周目のバックストレートでアウト側から私をパスにかかります。とにかくイン側だけは明け渡さないように気をつけて、一旦抜かれてしまいますが、抜き返すという展開。

●ファーストアタック


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その後もピッタリ付けられ続けて、私はミスをしないこととコントロールタワーに表示される周回数をチェックしながら「早くチェッカーが出てくれ」と祈るような気持ち。終盤には雨が降ってきてワイパーも使う事態に。抜く気満々のミヤサンは再び7ラップ目のバックストレートエンドでしかけてきますが、これもインキープでしのぎました。

●セカンドアタック


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そんな感じで10ラップ目に入ります。「なんとか逃げ切れるかな…」と思っていたところに第1ヘアピンで最後のアタックがきます。私はインを締めていたのですが、やや強引にさらにインから入ってきて私の左後ろに接触…。ドライバーを見ると右手を上げて「ごめんなさい」のジェスチャー。まあレースこんなこともあるかなという感じでした。レースとしてはこのまま3位でゴール。

●ラストアタック


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こんな感じになってしまいました。モールがクリップごと剥がれてしまいました。まあかすり傷です…

サポートをしてくれたカッキー先生からは「完璧なレースだったよね。接触さえなければ」という言葉をもらいました😅

表彰式。シャンパンファイトもありました。

ちなみに筑波サーキットではDTMチャレンジ、ユーロチャレンジカップ、アイドラーズゲームなど欧州車を中心としたレースがわりと開催されています。クルマもバラエティに富んでいて見ていても面白いと思います。レースではなく走行会も同時開催されたりしますので、興味のある方は見に来たり、出場したりといろいろな楽しみ方ができるのでおすすめです。応援も大歓迎ですm(_ _)m。下に公式?っぽい紹介動画を貼っておきます。


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DTMチャレンジ参戦記(1)フリー走行、予選編

3月20日(水・祝)、筑波サーキット(TC2000)で開催されたDTMチャレンジというレースに参戦しました。昨年は、クルマを変更したり兵庫県のセントラルサーキットで開催されたユーロカップに参加したりということもあり、筑波サーキットでのレースは約1年ぶりです。

昨年までのクルマは車重が重かったために遅い言い訳ができたのですが、今のクルマはカーボンボンネットやアルミドア、バッテリー移設などでだいぶ軽量化しているために言い訳ができない状態になってしまいました。

今回のクルマはかなり軽くなっています…とは言え1100kgは超えてますしエンジンは基本ノーマル。タイヤは中古のZⅢですが。

レースに先駆けて2度ほど筑波サーキットで練習走行をしたのですが、タイムは街乗り兼用のダンロップ  ディレッツアZⅢで1分9秒台がコンスタントに出そうな感じだったので、内心そこそこいけるかも…という気持ちがあったのも事実です。前のクルマでは1分10秒が切れませんでした…

ハンドルは前のBMWに使っていたものに交換しました。バッテリーはレース用でグローブボックス内に移設しています。

レースがあると2週間くらい前から天気予報が気になります。当初は晴れからだんだん雲行きが怪しくなり一時は雪予報も出るなど気をもんでいたのですが、やや持ち直し当日は曇りのち雨という感じ。正午過ぎの決勝スタートだったため、なんとか持ちそうな雰囲気で当日を迎えました。

私が参加したクラス1はほぼE36BMW318isのワンメイク状態で、参加台数は10台。参加者もほぼ顔見知りのような感じですが、それだけに速さもおおよそはつかめているので、なかなか上位に絡むのは難しいそうな気もしてきます…。

まずはフリー走行をします。今回のレースではSタイヤ(レース専用タイヤ)とラジアルタイヤ(一般タイヤ)のクラス分けがありません。私は練習であまり減らさないように気をつけていた中古のZⅢを使用しますが、強豪と思われる参加者はSタイヤ、もしくはアドバンA052あたりのハイグリップラジアルを履いています。順位的には不利です。

Sタイヤ勢は、予選、決勝にタイヤを温存してくるでしょうからまったくアテにはならないのですが、ここでは私がトップタイムとなりました。予選に向けて緊張感が高まってきます😅。

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私のフリー走行のタイムは1分10秒1ですが、Sタイヤ勢はタイヤ温存で流しているだけだと思われます。マクラーレンが総合1位でクラス1-1位となっていますが、これは単なる表示間違い。

そして迎えた予選ですが、他クラスも交えて22台の混走となりました。私は最初に並んで1周のアウトラップの後、さっさと計測してヤマの少ないタイヤを温存しようと思いましたが、最終コーナーを抜けてホームストレートに出ると、まだコースインしてくるクルマがあります。そのラップを捨てて次に!ともう一回行きますが、コース上は渋滞しているために一度ピットイン。

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再び頃合いを見計らってピットアウトしてタイム計測します。第2ヘアピンの手前までは、自己ベストタイムをコンマ3秒ほどマイナス表示になっていましたが、すでにエンジンがタレ気味でバックストレートでプラス表示に反転。なんとかかんとか1分10秒台を切って1分9秒8を記録します。自分のベストタイムにも及びませんでした。

結果的に3番タイムで、ポールポジションは1分8秒6、2番手が1分9秒3。ただ、上2台はSタイヤ装着だったので、一応は面目が保たれる結果となりました。(決勝レースは次回…)

予選は3位。ただ、後ろにひと癖ふた癖ありそうなドライバーがいるので要注意な感じ…。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(11/最終回)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在在庫切れ?になっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第11回(最終回)となります。

2013年に発売した「モータリゼーション自動車雑誌の研究(グランプリ出版)」。この記事を書いているうちに在庫切れになったようです。ご購入いただいた方々ありがとうございました。もし欲しい方がいましたら、一度グランプリ出版にお問い合わせいただければ若干在庫がある可能性もあります。

モータースポーツは、日本のモータリゼーションの勃興期には、自動車メーカーにとって技術面、PR面を含めてなくてはならないものでした。1960年代に自動車メーカーがその威信を賭けて競争していた時代が、一番活発だったのも必然といえます。自動車雑誌に限らず一般マスコミ的にも、モータースポーツは若者層を中心に大きな興味の対象となり、若者文化の牽引役の一端を担いました。誰でもクルマを持てる時代ではなく、レーシングドライバーもある程度ノーブルな出自を持ち、ファンションリーダー的な面もありました。しかし、クルマの高性能が「速さ」に象徴される時代は長くは続かず、70年代に入ると大気汚染の問題から排ガス規制の時代へとつながっていきます。自動車メーカーも排ガス規制対策に追われるようになり、レースの表舞台から一端姿を消しました。ただ70年代に入ってもモータースポーツはパーソナルスポンサーを獲得したプライベートチームや、メーカー系のチームによる競い合いとなり、一定の盛り上がりを保っていました。

1980年代の後半からホンダのF1復帰や、日本経済の活性化の中で再び自動車メーカーがモータースポーツに力を入れるようになります。そこでメジャースポーツとして定着するかに見えましたが、1991年のバブル崩壊により再び沈静化。2000年代に入ってからもホンダ、トヨタのF1挑戦などがありましたが、それも(2013年当時から見ると)決して成功したとはいえないように見えます。

欧州を例に取れば、F1で活躍するチームは必ずしも自動車メーカーというわけではありません。純粋に英国車と呼べる自動車メーカーが無いイギリスであっても、マクラーレンやウイリアムズと言ったレーシングカーコンストラクターが存在しています。残念ながら日本ではそうしたコンストラクターがほとんど育ちませんでした。例えばトップカテゴリーであるスーパーフォーミュラでさえ、ドライバーの力量による勝負にする、あるいは経費高騰を抑えるという名目のもと、事実上外国製マシンのワンメイクになっていることからも見受けられます。そこに国内コンストラクターが参入できないというのは、国内モータースポーツ界を活性化するという面では疑問が残るところです。

優れたマシンを作り出すために、コンストラクターやその周辺のパーツメーカーが興隆してこそ、モータースポーツ業界全体が盛り上がるように思えます。自動車メーカーが参加することもありますが、本業はあくまでも市販車を作ることであり、経済環境が変われば撤退するということは、国内外のメーカーに関わらずあることで、そこに依存するのは危うい面があります。

モータースポーツ専門誌も、その興隆を見ていくと広告面などを中心に自動車メーカー依存体質になった面は否定できないでしょう。雑誌経営という観点から見ればメーカー、スポンサーに迎合的な記事となっていくのはある程度仕方がない面があったとしても、やはり報道機関としてのバランスが必要とされるところです。

趣味としてレースを含むモータースポーツに参加するという面から見ると、JAF管轄のイベントは高いと言わざるを得ません。それは参加者のレベルが高いというよりは、規則もその変遷も多いために窮屈で分かりづらいからという面のように見えます。その点、サーキット走行やJAF無公認レース(草レース)の方が相対的に盛んになっており、この流れは今後も止まらないでしょう。もちろん安全性の担保が大前提ではありますが、改造範囲は比較的ゆるく、楽しむということを主眼にイベントが行われており、趣味としてのモータースポーツのあるべき姿に近いように見えます。

レース以外のモータースポーツを見てみます。ラリーは80年代から90年代にはワークス、プライベーター問わず、積極的に世界を舞台に戦っていましたが、(2013年)現在は沈静化しています。かつてほど競技での成績が実車販売に結びつかなくなったことやコストの高騰、世界的な環境保護の潮流とも関係しているでしょう。これはジムカーナダートトライアルと言った競技も言えることです。

そういう状況の中でモータースポーツ専門誌も新しい切り口が求められているように見えます。競技としての真剣味やかっこよさ、趣味としての楽しさを伝えることは大前提となるでしょうが、排気音、タイヤスキール音対策などへの配慮の提案であったり、入門者にはわかりにくいという競技規則の解説を含め、専門誌としてもっと一般的に受け入れられるための提案などが含まれてくると思います。

モータースポーツ全般を見渡せば暗い話題ばかりでもありません。環境性能を追求しながら速さを両立するという新しい流れもあります。例えばルマン24レースにおけるアウディディーゼルハイブリッドエンジン搭載車や、トヨタのハイブリッドレーシングカーなどの活躍がその一端で、これらのマシンに対する興味は一般的にも高いように見えます。いずれにしても動力は内燃機関からモーター、化石燃料から電気という流れは続いていくでしょう。

反面、一時は見切りをつけられたと思われる内燃機関も見直されてきました。国内メーカーは一層の内燃機関の高効率化を達成しています。これは電気モーターとガソリンエンジンで主流争いをした自動車の勃興期にも似ており、先行きが注目されるところです。そして、どういう形にせよ時代に求められる形でのモータースポーツはこれからも続けられていき、それを報道するメディアも必要とされていくように思います。

 

というような感じで拙著「モータリゼーション自動車雑誌の研究」のモータースポーツ編ではまとめました。現在思うところは、モータースポーツというスピード感のある競争という点とそのリアルタイム性という面から見ると中心となるメディアはyoutubeに代表されるような動画配信が主流になるように思います。細かい解説は紙やwebが担当するような棲み分けでしょうか。ただ、それが今までのモータースポーツ専門誌のように商業的に採算ベースに乗るのかどうかという問題が残ります。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(10)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第10回となります。

休刊を経て、定期購読のみでの発売となった新生「プレイドライブ」。メインとするのは国内ラリー、ダートトライアルジムカーナと完全に参加型、国内Bライセンス競技に絞った形だった。

ラリーを中心にしたモータースポーツ専門誌として地位を築いてきた「プレイドライブ」も変化していかざるを得ませんでした。2000年代を迎えるにあたって、国内ラリーのグローバル化への対応も必要になってきたのです。1999年から2007年まで同誌の編集長を務めた伊藤忍さんに聞きました。

「国内ラリーも海外ラリーに準じて、SS方式にして、さらにギャラリーステージを作ろうという流れになってきました。JRCA(ジャパニーズ・ラリー・コンペティション・アソシエイション)が主導していきましたが、主催者にとっては大変な面もあったと思います。それでもWRCと国内ラリーは全然違うことをやっているのはまずいという考えはありました。さらにこれまでの国内ラリーに慣れ親しんだ参加者が離れて、一時的にせよ競技人口が減ってしまう可能性も考えました。それでも、さらに発展させようと望むのだったら、変革してく方向でやる必要があると思っています」

このような努力の中で、国内でも国際ラリーが開催されるようになります。この辺りについては伊藤さんとともに編集部員(後に編集長)として同誌に関わってきた佐藤均さんに聞きました。

ラリージャパンの開催はまさに黒船襲来でした。本誌もそれに対する情報を出していかなければいけません。そこでFIAのレギュレーション解説やグループNの車両作りも記事にしました。もちろん、それらは雑誌として必要な要素ではありますが、実際にそれまで本誌を支えてくれた読者にとって必要な情報だったのかというと疑問が残る部分です。メディアの作り手として、読者が欲しい情報をリアルに出していかなければいけない使命を持っていますが、より高みを目指すための専門誌という枠組みを勝手に規程してしまったこともあり、うまく読者が欲しい情報を出せていなかった面はあるかもしれません」

国内ラリーもSS中心のFIA規定に近い形で行われるようになり、スポーツ性が増したのは確か。惜しむらくは、それによって参加者が増えたとは言えない部分だろう。

プレイドライブ」が実際に国際ラリーに参加するための記事を書いたとしても、実際に出場するという人は限られていました。この辺が、旧来の比較的参加しやすかった国内ラリーとの違いでしょう。さらにこのタイミングで国内景気が冷え込んでいたのも不幸なことでした。モータースポーツに参加するためのコスト高という問題もあり、ハイパワー4WDが主力となっていき、車両価格はもちろんランニングコストが高くなっていました。こうしたこともモータースポーツ人口の減少と無縁ではないでしょう。

主催者はJAFライセンスなしでも参加できるようなイベントやクラスを積極的に設ける努力をしていましたが金銭的な負担の大きいモータースポーツは国内景気と連動して縮小することは避けられませんでした。そして「プレイドライブ」は2008年に一旦休館することになります。これはモータースポーツファンだけでなく、自動車雑誌全体でも大きなできごとでした。同誌はその後、通信販売メインで復活。2024年現在でも発行を続けています。

※あと一回蛇足的に総括の記事を入れて最終回にします。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(9)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今回は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第9回となります。

「auto sport]誌。2012年当時は隔週刊。メインで扱うのはスーパーGT。F1は速報誌、専門誌があるためにモータースポーツ専門誌内でさえ細分化が行われている。

バブル崩壊リーマンショック後の各モータースポーツ専門誌がどうなっていったかを見ていきます。2001年に「AUTO SPORT」を発行していた三栄書房と「Racing on」を発行していたニューズ出版が業務効率化のために共同で編集プロダクション「イデア」を設立。本来ライバル誌同士が連合するということで話題になりました。これで「AUTO SPORT」は月2回刊から隔週刊を経て、より速報性を重視した週刊となります。一方「Racing on」は、月2回刊から月刊としてワンテーマを掘り下げる方向となってきます。

ここでは「auto sport」(2012年12月よりロゴをスモールレターに変更)編集長を務めた高橋浩司さん(当時、株式会社サンズ制作本部長)に聞きました。

「まず「AUTO SPORT」を週刊にしたのは、イデアができてすぐの頃です。チームを増強しながら進めていきました。初期はレースレポート班、ニュース班、特集班と3班制を敷いてやっていました。社内でデザイン、DTPのワークフローも組めたので、それは強みでした。ただ、全体的な傾向としては雑誌も売れなくなってきましたし、次第に体制的にもシュリンクしていったのも事実です。モータースポーツの世界というのは経済が活発なときは華やかですが、厳しいときにはそれが反映されてしまう業界でもあります。スーパーGTも自動車メーカー3社がなんとか活動しています。そこを背骨にしてGT300でプライベーターを含めていろいろなクルマが出てきている。これはいい流れです。スポンサーやチームオーナーもいろいろなジャンルの方がいろいろな考え方で出てくるようになっています。例えば痛車的なチームが参入しているのも象徴でしょう。そうした広がりはあると思いますし、これからもそういう流れを作っていかないといけないと思います」

この号ではFIA GT3が参加しているニュルブルクリンク24が特集されている。ツーリングカー、スーパーGTが人気なのに比べ、国内最高峰であるスーパーフォーミュラを含め、オープンホイールレーシングカーの人気は低調という時代だった。

2012年当時「auto sport」誌が主軸としているのはスーパーGTでした。販売部数を考えれば、そちらに注力しなければならないのが現実でもあるでしょう。

「F1は専門誌があります。本誌は本誌のスタンスでF1も取り上げていきますけれども、やはり主力は反応がリニアなスーパーGTになります。それとフォーミュラ・ニッポン(2013年よりスーパーフォーミュラ)は国内で行われますので、観戦に行ける能動的なカテゴリーと言えます。F1は全体的にファンは多く、日本グランプリは見に行けますが、観戦はテレビが主体になります。F1の情報はインターネットや「F1速報」などの速報誌も含めて十分にあります。対してスーパーGTの情報は本誌と各チームの公式ホームページしかありません。雑誌が売れないことには出版社も成り立ちませんから、どうしてもお客さんのいるところに力を入れなければなりません。今後は「AUTO SPORT web」を本誌と練度してやっていきますのおで、インターネットでの情報の出し方を考えてユーザーのニーズにあったものを整えていくことを目指しています。一方で雑誌のコンテンツもタブレット型PCの発展にともなってアプリも活用して、いろいろな形で読めるようにしていかないと厳しいと思っています」

モータースポーツ専門誌として、日本のモータリゼーションを支えてきた同誌も変革を求められている時期と言えるでしょう(この取材時はインターネットでの動画配信はまだ本格化していませんでしたから、時代は思ったよりも早く変わっていきました)。

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自動車雑誌、悪戦苦闘の100年史・モータースポーツ誌編(8)

11年ほど前にグランプリ出版から「モータリゼーション自動車雑誌の研究」というやけにカタいタイトルの本を出しました。中身は意外と?やわらかくて、歴代自動車雑誌紹介と、それらが発行された時代背景、風俗をからめ、できる範囲で関係者からのインタビューを掲載したという感じの内容です。絶版?になる前(※2024年3月5日現在出版社在庫分のみになっているようです)に、そこから抜粋したり、になって思うことを書いてみたいと思います。自動車雑誌編は24回で完結していますが、今連載は同書の中で残っていたモータースポーツ誌編の第8回となります。今回は、モータースポーツのターニングポイントとなったバブル崩壊から衰退局面について振り返ります。

90年代のモータースポーツ界は、表面上は盛り上がっていたように見えました。F1グランプリにはホンダがエンジンサプライヤーとして継続的に参戦を続けており、ドライバーも中嶋悟鈴木亜久里の引退後も、片山右京中野信治高木虎之介らがF1にレギュラードライバーとして参戦しています。国内を見ても93年まではグループAによる全日本ツーリングカー選手権が行われ人気を集めていました。

しかし、バブル崩壊などの景気の後退もありモータースポーツ人気の低下は明らかになってきました。とくに国内レースはそれまで積極的にモータースポーツチームをスポンサードしていたアパレル業界関係など多彩な企業がモータースポーツ界から姿を消してしまいました。象徴的だったのが、国内で活発なレース活動を行い89年にはF1にまで進出したレイトンハウスレーシングチームが1991年に崩壊したこと。さらに94年にはF1ドライバーとして絶大な人気を誇ったアイルトン・セナローランド・ラッツェンバーガーサンマリノGPで事故死し、F1を中心としたモータースポーツ離れも加速していったことも不幸でした。93年には全日本GT選手権(2005年よりスーパーGT)が開催されるようになり、人気レースとはなりましたがモータースポーツ全体を盛り上げるには至らなかったと言えるでしょう。

ラリーでは、日本での開催が待ち望まれたWRCに2004年から「ラリージャパン」が組み込まれるという話題もありました。ただ、すでにトヨタ、日産はワークス活動を終了しており、三菱も直前に参戦中止するなどタイミングが良いとは言えませんでした。そして、2008年のリーマンショック以後はトップカテゴリーから参加型まであらゆるモーターポーツが停滞したと言えるでしょう。

個人的なことを言えば、私もモータースポーツ誌の仕事がまったくなくなり、一番困った時代になります。

次回からはこの衰退局面でのモータースポーツ誌がどうなったかを見ていきます。

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